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 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 4月10日(木)16時22分12秒
  この自叙伝を読んでいて意外な事実に突き当たった。
その一は、あの「放浪記」で有名な作家林芙美子(一九○四〜五一)が同時期、やはりモデルをしていたというのである。作家として名をなす前に大変な苦労をしていたことがわかる。
その二、昭和十三年、演出家・杉本良吉とソ連へ脱出して「恋の逃避行」と話題になった女優岡田嘉子(一九○三〜)が、淡谷のり子が昭和十一年、銀座数寄屋橋にバアを出店したとき、マダムをやってもらったという。(「店の名は『シェルダー』、岡田嘉子さんにお願いしてママさんをやってもらいました。まあ、その頃のことがあるからでしょうね、岡田嘉子さん、私を見るの、いやな目でご覧になりますね。ソヴェエトからお帰りになった時も、具合が悪そうな顔してらした。お偉くなられたから、昔のことを知っている私がけむたいのでしょうか。」=同自叙伝 一二九頁 注・岡田嘉子はソ連で演劇大学に学び、五九年に森本薫の、「女の一生」を演出、颯爽と日本演劇界にカムバックする。)
その三、大ヒット曲「別れのブルース」は藤浦洸の作詞、服部良一の作曲である。
この藤浦洸はよく淡谷家でよくご飯の接待を受けていたという。そして当時藤浦は浪花節芝居にこっていて、別れのブルースの歌詞は広沢虎造の浪花節からヒントを得たーと喝破したのは他ならぬのり子の母であったという。
「その藤原さんが『別れのブルース』を書いてヒットしたわけですね。そしたら母が笑うんです。しまいにはおなかを抱えて笑うんです。不思議に思って、『どうしたの』と聞くと、母の答えは、『あの人、やっぱり浪花節芝居にいた人だねえ』って。そしてこう続けるんです。『だって、別れのブルースって、
窓を開ければ港が見える
メリケン波止場の灯が見える……
でしょ。広沢虎造の浪花節と比べてごらんなさいよ。ほら、こうよ。
障子開ければ灯が見える
清水港の灯が見える……
じゃないの」(同自叙伝 四八頁)
  淡谷のり子も母に指摘されるまで知らなかったという。(私も昔はラジオでよく虎造の浪曲を聞き、今でも一杯飲んだあと、カラオケで「別れのブルース」を歌うことがあるが全く気がつかなかった。もっとも本人が気付いていなのだから、当たり前だ)
 


↓スミマセン

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 4月10日(木)11時16分4秒
  誤って同じフレーズが出ました(^^ゞ
短い文章の方を削除願います(~_~;)
 

お答えします

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 4月10日(木)11時13分36秒
  「別れのブルース」です。
作家は、調べないと解りません(^^ゞ

淡谷のり子さんは、演歌を大変に嫌っておられました。
「束にして、燃やしてしまいたい」とも言っておられましたね。
「どうせ〜」等の後ろ向きの言葉がお嫌だったのでしょうか。

そんな中で、淡谷さんが残された、私の好きな言葉を紹介します。

『私の歌が大好きな人、私の生き方が大好きな人、その人だけに聴かせてあげたい。その人だけに聴いていただきたい。』
 
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 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 4月10日(木)11時07分5秒
  私の歌が大好きな人、私の生き方が大好きな人、その人だけに聴かせてあげたい。その人だけに聴いていただきたい。  
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 何だっけ 息抜き

 投稿者:バクタレハッチー  投稿日:2008年 4月10日(木)10時51分27秒
  窓を開ければ 港が見える メリケン波止場・♪・♪・・

タイトル・何だっけ  作詞家・誰だっけ 作曲家・どなただっけ。

誰が知ってますかぁーーーー。
 
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淡谷のり子と青森のことども

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 4月 9日(水)20時47分36秒
  「川内康範」が登場したので、「青森」を少し触れてみる。すぐ思いつく歌手は古い順から「淡谷のり子」「奈良光枝」「菅原都々子」「井沢八郎」などである。
淡谷のり子は生涯「じょっぱり」であった。(青森弁で強情っぱりを意味する)
生家は青森の寺町、大きな呉服屋に生れながら、父の放蕩、青森の大火で家を焼失・苦難の道を歩む。
母はのり子と妹を連れ三人で故郷を棄て、上京する。
母、三十三歳、のり子十六歳、妹十四歳のときであった。
母は上京するとき、二年分ぐらいの生活費を持参し、仕立てものなどしながら家計費を捻出したが到底間に合わない。のり子は母が音楽の教師をすすめたので、神田の私立東洋音楽学校(現・東洋文化学園)予科ピアノ科に入学する。(自分は作家志望であったという)妹は青山学院女学部に入る。生活は困窮を極め、いくら質屋通いしても追いつかない。
やがて妹は栄養不足のため失明の危機にさらされる。
のり子は予科二年の終わり頃、休学を決意、ひそかにモデルとなって画家田口省吾のアトリエに通う。田口は肌が白く、新鮮なのり子の肌に魅せられた。
その肌の白さは際立っていた。あるフランス帰りの画家のモデルをしたとき、「色が白すぎて光線が滑ってしまう」と言って「あんたは描けない」と帰されてしまったほどであった、という。そのような時期にシャンソンやタンゴと出会ったという。(田口省吾が描いた「裸婦臥像」二科展に出展され、評判となる。今も上野の美術館に保存されているという)
十九〜二十歳のこの頃、田口の経済的援助で学校に復学していたのり子は二十二歳のとき不幸に見舞われる。
田口が暴力でのり子を奪うのである。
「私は彼をどうしても好きになれなかった。私より十歳年上で、俳優森雅之さんに似た感じの男でした。いい男でしたけれど、私は全然魅力を感じなかったんです。…それがある時、彼は裸でポーズしていた私に襲いかかったんです。アトリエには彼と私のふたりっきりでしょ。ドアに錠をかけられたらおしまいですよ。それに私はヌードでまったくの無防備状態。抵抗も空しく、私は暴力でからだを奪われていました。それが初体験でした。なんて不幸な初体験だったのでしょう。」(「女の自叙伝 歌わない日はなかった」淡谷のり子 七○頁)
田口は奪ったのち彼女に結婚を申し込むが、のり子は頑として拒絶した。一九二九年、二十二歳のときであった。それにもめげず、彼女は東洋音楽学校を主席で卒業する。しかし、彼女の選んだ道は「大衆の歌」であった。
当然、クラシックの道に進むと思っていた教師と断絶する。
続きは明日です
 
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レオナルド・ダビンチのように

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 4月 9日(水)09時49分16秒
  川内康範氏は思想家でもあり、歴代の政治家の方々との親交も厚かったようですね。
他にも色んな面をお持ちの方のようで、作詞活動は、ご自身のライフワークの中の一部だったのでしょう。
やはり、アンテナを360度張っておられる方は、醸し出されるものに「こく」や「深み」がありますね。
今は効率主義で色んな職業が細分化されていますが、本来一人の人間やれる事にボーダーラインは無かった筈ですね。
禅僧・良寛は、書家の書、歌詠みの歌、料理人の料理を嫌ったそうです。
何か解る気が致します。
レオナルド・ダビンチのように、あらゆることが楽しくできたらいいですね。
 
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青森・福島の芸能人

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 4月 8日(火)21時05分50秒
  「おふくろさん」などのヒット曲を送り出し、テレビドラマ「月光仮面」の原作も手がけた作詞家・作家の川内康範(かわうち・こうはん)が6日午前4時50分、青森県八戸市内の病院で死去した。88歳。
北海道生まれ。高等小学校卒業後、さまざまな職業を経験した。小説家の中河与一に師事し、作家活動を開始。小説のほか、数々の映画、テレビドラマの原作・脚本を書いた。特に「月光仮面」は大ヒット。テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」の監修も務めた。
作詞家としても活躍し、松尾和子・和田弘とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」は日本レコード大賞を受賞。他にも、森進一の「おふくろさん」「花と蝶」、青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」、城卓矢の「骨まで愛して」などの詞を書いた。
また、戦没者の遺骨収集活動などに尽力。政治家と交友があり、政治評論も行った。84年のグリコ・森永事件では週刊誌上で「おれが1億2000万円出すから、もう手をひけ」と犯人に呼びかけたこともある。昨年、森進一が「おふくろさん」に勝手にセリフをつけたとして“歌唱禁止”を通告し、話題になった、と。
最後まで森進一を許すことは無かった、などと取りざたされた。「昭和の頑固者」と表現した者も居た。大体、淡谷のり子とかじょんがらの竹山とか、見るだけで「頑固」そうである。北国の厳しい環境に耐え抜いて修練するから、締まっているのだと思う。ふやけていないのだ。政治・経済でも地政学上一般的に南に行くほど甘いのは環境のせいだろう。暑いと人間誰しも「思考力低下」に陥る。政治、経済といっても、所詮、人間の精神活動の所産だから、当たり前である。それにしても、いい歌詞を書いたものである、メロもすばらしい。「伊勢崎町ブルース」は30代のころレコード買ってよく聴いた。青江美奈のハスキーな声が忘れられない。さてついでに、こっちの県の話である。
「おふくろさん」の作曲家、猪俣公章はひばりのものまねが上手かったな〜〜
後年、演歌の大作曲家になった猪俣公章は当時キミアキと呼んでいた。
彼の家は私の家と目と鼻の先で、福島市のど真ん中、税務署の隣の割烹料亭であった。
小、中学校の一年後輩が彼の兄君、二年後輩が公章君で、よく美空ひばりの物真似をやって、周囲を笑わせていた。
母上は気品があり、いかにも料亭のおかみさんといった感じの太っ腹の女性であった。ときどき遊びにいき、お菓子を頂戴した。
           公章は美空を真似て得意顔
          公章のお袋様の世話になり・・・となる。
どうやら、加藤 茶も福島第二小、中学校にいたらしい。友人もそう言っていたし、猪俣公章君も言っていた。公章君が(小学校か中学校だったか私は忘れたが)野球部に用具一式寄贈したとき、校長から加藤茶の成績表を見せてもらったことがあったという。「あれは成績優秀であった」と言っていた。公章君を訪ねたときのことである。
テレビを見ていたら、偶然加藤茶が出演していた。
「加藤茶の故郷、福島グルメツアー」というフジテレビの番組であった。飯坂温泉で高木ブー、中本こうじらと野天風呂に浸かり、料理を食べていた。
            飯坂の温泉(いでゆ)なつかし野天風呂
そういえば、福島出身の有名作詞家、作曲家、歌手やタレントが多い。
古関裕而は福島商業出身、福島市内である。信夫山の麓に記念館ができた。
市川昭介、郡山。島倉千代子「恋しているんだもン」、「アンコ椿は恋の花」の都はるみを世にだした。
作詞家に丘 灯至夫がいる。郡山出身、「高原列車は行く」「高校三年生」「みなしごハッチ」で爆発的ヒットをとばした。
歌手では、古関裕而とのコンビで数々のヒット曲を世に送った伊藤久男「露営の歌」「君の名は」、「イヨマンテの夜」「山のけむり」はのど自慢の定番であった。
それから、「愛染かつら」「誰か故郷想わざる」の霧島 昇。
「お富さん」「別れの一本杉」の春日八郎は会津出身である。
万能選手西田敏行は郡山 、ニヒルな感じで画面を圧倒する佐藤 慶は会津出身である。(近頃見ない)
見るからに人のよさそうな佐藤B作(高校の後輩だ)「国語元年」の南郷役はよかった。
その他、クラシック界に指揮者、作曲家として活躍中の小林研一郎がいる。
またバイオリンの佐藤陽子(故池田満寿夫夫人)声楽でもマリア・カラスに認められたとか。
フラメンコの長嶺ヤス子も目下活躍中である。
在京の中学校の同窓生、故K君(彼は長嶺さんの後援者)の肝いりで、「長嶺ヤス子ショー見物兼同窓会」を都内ホテルでやったことがあった。
まじかに見るスペイン舞踊は迫力満点であった。その時、長嶺さんと一緒に撮った写真
が沢山ある。
続きは明日です・・・
 
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思い出ばなし「女乞食」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 4月 7日(月)16時50分39秒
  さて、また思いで話、お茶のみ話を再開します。疲れたら、また休みますので皆さんよろしくお願いします。まずは「女乞食」の話から・・・今時、「乞食」(こじき)という言葉は死語に等しいでしょう。これを「こつじき」とも読める人は「読書家」だ。同じ、「物乞い」でもこちらは坊さんの方だ。托鉢と同義語と思っていい。
女乞食子を孕む、の条条である。
阿武隈川のほとり、福島県庁附近は昔大仏城と言った。(川はその下を北に向かって流れ、宮城県から太平洋に注ぐ)義経の身代わりになったと言う「杉野目太郎」の居城だった。よってこの辺りを、杉妻(すぎのめ)町という。
紅葉山公園はその名残である。公園には当時、名物の女乞食がいた。
私達が川に水浴びにくると、よく彼女に会った。純朴でいい娘?さんだった。多分40歳前後でなかろうか。当時、我が小学校に25Mプールがあった。下級生はプールで訓練し、上達すれば阿武隈川でデヴューするのだ。女乞食の名を「金ちゃん」と言った。(キンチャン忘れはしない)夏休みには殆ど毎日、川にきた。
それから暫くして姿を見せなくなった。一説に彼女はみごもった、と大人たちが話し
ていた。そして世の中には「物好き」が居るものだ、と笑っていた。当時ホームレスなどという言葉はなかった。「キンチャン」はどこに行ってしまったのか、相手の男はどのような男であったのか、しばらくの間、大人どもの話題であった。
紅葉山 女乞食が 孕みたり

戦後、どこにでも闇市があった。福島では駅周辺から福ビルと言われた駅前のビルあたりが闇市であった。もっぱら食糧、なかでも油で揚げたカレイをたくさん売っていた。独特のによいが鼻に来た。ある日、そこへ行った。男のヤクザと女のヤクザが仁義の最中、女のヤクザが自分の前の裾をパッとまくった。すると一瞬男は仁義を中断した。女はその隙に自分のドスで男の顔面を切り付けた。あの女ヤクザはただ者ではないと、お面白おかしく、大人たちが話していた。授業中、闇市に行くのである。なぜか?我われ「風紀委員」が登校しないで、闇市をウロウロしている同窓生を探して学校に連れてくるのである。勿論、説得するのだ。その様なときに、闇市内の「事件」に遭遇することになる。(これが小5〜小6だから、今の子供などは問題にならないくらい幼稚にみえる)
闇市や 裾まくりたる 女侠おり
闇市や カレイばかりが たんとあり
物物や 交換すべき物絶えぬ
薪無くて 風呂は三日に一度なり

公会堂という所はどんなことでもするところである。
剣道、柔道の稽古場、歌、演劇の公演、戦死者の慰霊祭、(私の実父なども
続々と戦死した戦士とグループ別にわけられ、公会堂で慰霊祭がとりおこなわ
れたという。)
そしてこのころ夜になるとダンスホールに早変りである。
進駐軍の兵士が日本女性と踊っている。口に風船を膨らましている。
しばらくして解ったことであったが、サックであった。(現代ではコンドームという。)
当時そのようなハイカラな呼び名はなかった。ダンスをしながら風船が膨らむと女性は嬌声を発していちゃつくのである。
やっている方がアホなのか、みている方が馬鹿なのであろうか。
風船の何処にながる吾妻山

続きは明日です・・・
 
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 投稿者:バクタレハッチー  投稿日:2008年 4月 7日(月)08時18分57秒
  勝負事・イカサマ 八百長 策略 陰謀>付き物ね 運とチャンスも付き物ね>しかし、一番は、運気(運チャンス時期大義名分)の読みですね。

徳川家康 運気を待って待って 徳川三百年の元をつかんだね。

明智 三成 慌て過ぎでした。 慌てる物乞い もらいは少ない。
 
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自慢話し

 投稿者:バクタレハッチー  投稿日:2008年 4月 6日(日)10時42分31秒
  昔昔の又昔
飲み屋の女に金やって 喜び勇んでまってたら
裏かトンズラされちゃった 泣きの涙でよろよろと。

こんな男に 私はナリタクナイ。 なかなか世の中甘くないね。^ ^

そういえは、温泉芸者さんにも 何回も逃げられたっけ。 昔昔の自慢ばなし。
 

雨ニウタレテ

 投稿者:橋暮慎吾  投稿日:2008年 4月 5日(土)20時57分15秒
  風ニフカレテ 何がオコッテモ イツモヘラヘラと笑ッテイル・・・・・ソンナ人ニワタシハナリタイ  
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勝負事、プロ

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 4月 5日(土)19時44分34秒
  「二位」以下の者の歴史は、やがて埋もれて忘れられましょう。

一度や二度の「二位」なら、誇りにも喜びにもなるでしょうが、

それ以上続けば、それは屈辱になるでしょうね。

勝たねば、生きてゆけない。

それが、プロの世界だと思います。
 

魚心と水心

 投稿者:へび  投稿日:2008年 4月 5日(土)16時19分27秒
  政治家と官僚 政治家と企業 政治家と市民 歌手と作曲家 歌手とファン 歌手と芸能界

金と女 恩と義理 欲と欲 「何事も双方に利益が無いと上手く行かない」

女の武器 男の武器 それは昔から決まってる。プロの世界は神代の時代から食うか食われるかだ。

侍 武士 武将 も 大奥も同じだ。 人間平等なんて理想だけで見栄と自慢が男の証だろう。

「勝負師は何が何でも勝たねばならぬ・・敗軍の将は黙ってなさい」
 
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確かに

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 4月 1日(火)12時16分28秒
  団体や組織の中で、個人の良心に沿って行動することは、非常に難しいでしょうね。
良い事・悪い事の基準が、それぞれに違いますから。
その辺りを取りまとめる事が出来る懐の深い人が、リーダーとしてやってゆける人でしょうね。
でも人事は、最後には収まるところに収まりますね。
 
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難しいです

 投稿者:団長  投稿日:2008年 4月 1日(火)10時57分42秒
  命令すると威張ってる
黙って見ていると能無し
しかし皆さん団長お願いしますと言う
断るとお高く留まってると陰口 私の地域だけでしょうが?
 
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息抜き

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 4月 1日(火)08時41分31秒
  何を言っても賛否両論があります。
何をやっても賛否両論があります。

しかし、白黒を付けなければ成らない。

算数みたいに 2+2=4 こうなれば世の中平和なんですがねぇー。

税金なし 自衛隊なし 警察なし 法律なし 自由に生きたいですが?

他人の為に生きる 大変素晴らしい事ですが 自分も飯を食わないと 死にます。

いくら良い事でも 人に押し付けると 皆さん逃げます。^ ^

人間社会色々と難問だらけですねぇーー。 私は何にもしないで生きてますから気楽ですが。^ ^
 
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「のど自慢」始まる

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月31日(月)17時01分35秒
  「敗戦」の翌年=1946年(昭和21年)1月1日 「天皇は神格化否定の勅書」を出した。これを読むと先ずは明治天皇が国是とした「五箇条の御誓文」を挙げ、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」が基本だ、と言って、国民と共に歩む、と宣言した。
そして、天皇は先ず、2月に神奈川に赴きその後全国へ巡幸の旅に出る。
よほどのヘソ曲がりでない限り、天皇の苦衷を察して、何処に行かれても歓迎され、国民は熱い涙を流すのであった。
「NHKのど自慢素人音楽会」は新春1月19日から開始された。歴史は古い。
以下、十七文字・・
のど自慢 メーデーもあり 米よこせ
教科書を 墨で黒々 塗りたくる
芹とりも 食糧難の 時節かな
防空壕 壊して 校庭芋畑
芋ずくし 代用食の秋はきぬ
えんえん蜿蜒と代用食や腹の虫
あかあかと 火はつれなくも 芋焦げぬ
かじめそ  ば蕎麦これほど まずい ものもなし (カジメの粉で作ったうどんなんざあ、食えたものでなかった)
信夫野の 山笑いて 小鮒とる(大事なカルシウム源だ)
白妙のしらみ虱干しけり垢のきぬぎぬ(女の児は坊主にされてDDT散布だ)
腹巻きの縫い目に食い込む虱かな(よく食い込んでいた、今はなつかしいシラミだ)
買い出しに 行くや母子の 秋の暮れ(母が嫁さんになたとき着てきた着物は芋に化けた)
買い出しは  石鹸林檎柿なりき(主として前が母、後が小生、リヤカー引いた)
農家であずきを仕入れ、福島から上野まで運ぶ。帰りは金太郎飴を買って福島に帰る、それを駄菓子屋に納める。母と二度ほど上京した。米を運搬した大人達は大抵宇都宮で検札にひっかかった。捕まらないように、米をホームに投げ出す人もいた。
小豆など 金太郎飴と 替えにけり
米運ぶ 宇都宮にて 極まれり
遠い遠い・・昔のことである。

 腕が疲れて来たので数日休憩します・・その間皆さんよろしく願います。
 
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生きるために・・

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月30日(日)20時56分54秒
  真に人の心の裡はわからない。だから、目安は「態度」「実行」(おこない)で当面判断するしかない。NHKの番組が「無能」な総理大臣のせいで変更になった。期限切れが最初からわかっていても、まだ「頑張る」ふりをする。論外だ。そんな姑息な国民への呼びかけで、人気が回復するとでも思っているのか、外国の要人は腹の中で軽蔑しているのだから、どれほど国益を損ねたか判らない。「外交」以前の問題だ。まったく腹の虫が収まらない。
総選挙で国民の判断を早く求めるべきだ、サミットもへったくれもない、とっくに「福田内閣」など外国から、見限られているのだから、ガラガラポンでやり直せ!
さて、「敗戦後」にもどる。ノートルダム修道院の想い出がある。
F市の信夫山にほど近い花園町にのトールダム修道院があった。現在「桜の聖母学院」とよばれている。戦時中、ここに連合国側の民間人百四十人が収用されていた。ドイツ海軍の通商破壊船によって撃沈、だ ほ拿捕された客船や貨物船のクルーや乗客ばかり集めた、国内でも特異な抑留所であった。地元の記者が書いている。機密事項であった。(「別冊歴史読本 “戦争裁判処刑者一千人”」)
ほとんどの市民は終戦まで知らなかった。
戦後、米軍の艦載機がやってきて上空から食糧、その他を投下した。しかし全部が修道院内には落ちない。かなりの物がはずれて周囲の民家や泥田に落ちた。
それを市内の小、中学生や大人が拾いに行った。缶詰などそこら中に散乱していた。泥田やどぶの中から拾った。後年、私がD社に入り、一期後輩のK氏と話をしていたら、彼は市内の本家に疎開していて、やはり缶詰を拾いに行ったと言っていた。世の中にはこんな偶然もあるのだ。
           争って缶詰拾う泥の中
GHQマッカーサー司令長官厚木飛行場に到着した。(八・三0)
         夏空のパイプくゆらす大男
この頃、F市内にれ連合国軍が進駐してきた。舗装のされていない目抜き通りをチョコレートやガムを投げながら、ジープに乗った大男が走り去る。
それを私たち子供がよく拾った。(いいの悪のと言っていられない、生きるか死ぬかだ)
進駐軍の軍政部が置かれたところは阿武隈川のほとりにある教育会館であった。
         チョコガムをま撒いてジープの砂嵐

続きはあすです・・・
 
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↓そうですね

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月30日(日)18時44分26秒
  人の心は心配しているのか? 笑っているのか? 解りませんね。
もしも人の心が見えましたら、殴り合いの喧嘩でしょう。アハハハハ

会社員は、全員首でしょう。 夫婦は即離婚でしょう。アハハハハ

悪事は一夜に千里を走る 良事は門を出ず しかし、人は死んでから世の中に認められます。

人は死んだ人を褒めてれば 一番無難ですからねえー アハハハハ。
しかし、死んだ人の悪口は 嫌われます。
 

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