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そうですか

 投稿者:大洗三歳以下の93歳  投稿日:2008年 2月17日(日)10時49分27秒
  家の親父は、戦争の話はまったくしません。軍医の橋暮だったもので
魚屋と軍医は何ら関係有りませんが
無免許で医者の真似してたようです。戦地は何でもかまわなかったようです。
医療関係は死ぬ確立が少なかったから、親父は祖国日本の家族が心配で
「生きて帰りたかったので、医者のふりをしたのかも知れません、とにかく何でも器用なお人だったようです」

デモ、命を取る方でなく、助ける方を選択したのは、私は卑怯者と言われても
親父の選択を今でも尊敬しております。
 


(無題)

 投稿者:桃ちゃん  投稿日:2008年 2月17日(日)04時26分42秒
  毎晩、親父がキムチを食べながら晩酌していたのを思い出した。
酔っ払うと、親父はいつも、戦争の話をした。
僕は、ロシアに行った。。。ってさ。
 
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「長江はいつ霞むらん・・」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 2月16日(土)15時10分30秒
  橋暮さん、有難うございます。「日本史」の話じゃありませんが、「もずが枯れ木で」は名歌ですね、歌詞自体に「日本史」があります、文部科学省はこのような歌を広く収集して、ちゃんと歴史と共に子供に伝えるべきではないか、と思います。「なぜここに満州がでてくるのか?」と。戻ります。

この俳句を詠んだ兵士達の運命はどうなったのであろうか。生きて帰国できたのであろうか。
毎日揚子江を上流へ航行してゆく駆逐艦はいたるところで、止むことのない砲弾の音を聞きながら、勝利の日のくることを待ちわびたのであろう。
しかし、本当に勝利の日はくるのであろうか。古の幾多の詩人が詠んだ揚子江の春霞が見 ら れる時期が待ちどうしい、そんな平穏なときが来るのであろうか。
この二つの俳句にはこのような気持ちが表われてはいなだろうか。
李白の詩に「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之(ゆ)くを送る」がある。
次の詩である。
「故人西の方 黄鶴楼を辞して
烟花三月 楊集州に下る
孤帆の遠景 碧空に尽く
ただ見る長江天際に流るるを」

悠々として迫らざる揚子江、この「烟花」こそ春の花に霞が立ち込めているさまである。
黄鶴楼は漢口の対岸、武昌にある。楊州(別名=広陵)は南京の下流にある。孟浩然
は李白の詩友、李白は万感の思いを込めて友を送る・・・この三月、霞が立ちこめている揚子江を下ってゆく。
兵士達はこのような詩を知っていたに違いない。
 

共感を得ます

 投稿者:橋暮慎吾  投稿日:2008年 2月16日(土)00時12分11秒
  武人はいつどこで命をおとすやらわからないので、いつでも辞世を詠めるように俳句や短歌をたしなんでいたのでしょうね。

今日はライブで「モズが枯れ木で」(サトウハチロー作詞)を歌ってきました。

「兄さ(あんさ)は 満州へ行っただよ 鉄砲が涙で光っただ モズよ寒いと鳴くが良い 兄さはもっと寒いだろ」

毎晩楽しみに読んでいます^^
 

戦場と俳句=武人のたしなみ

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 2月15日(金)15時44分42秒
  昨日のニュースを聞いて驚いた。現在、高校で「日本史」が「必修科目」になっていない、神奈川県が初めて必修にするんだと。聞いてアキレタ。どこの国に自国の歴史を選択科目にしてある国があろうかと思う。世界中調べてた訳ではないが考えられない。我々の時代は「日本史」も「世界史」など手を抜かず、8科目必死で受験勉強したものだ。従って、今でも「微分・積分」の数式を覚えている。
たとえば、海外(特に英国)に政治家・官僚・商社・金融マンが行き交渉ごとがあると、先方は日本の歴史、伝統文化を必ず質すという。茶道・華道・能・歌舞伎・・さらに源氏物語まで。これらに満足に答えられない者は軽蔑される、軽蔑されるから交渉ごとが上手くいかない。文部省も何を考えているのか。この前「日本の歴史と伝統をまもり美しい国」を作りましょう、と言った総理大臣はすぐ辞めた。「美しい国」が聞いてアキレルワイナ!さて、昭和十三年9月〜10月の父の最期の日記である。
「同十二日 原隊復帰 同十三日 葉家集出発
同十七日午後三時商城入城同二十一日小野部隊大○○、 00氏に商城城外にて面会ス 同二七日午後四時商城出発
同二八日金弐拾円貯金ス  同十月五日ヨリ本隊ハ左第一線ニヨリ大別山脈ノ敵ヲ攻撃開始セリ。」
手帳の記述はここで終わっている。
十月五日から戦闘を開始したのだから手榴弾でやられる十六日を目前に、手帳に記載する余裕などなかったのであろう。20円貯金したとあるのが胸を打つ。

以下の記述は従軍作家で戦後も次々と「問題」小説を発表し、「社会派作家」として重きをなした石川達三が書いた「武漢作戦」の一節である。(石川達三は「中央公論社」特派員として中支戦線に従軍した。)
「戦闘は各地、各要塞、揚子江で激戦を極め、戦場はいたるところで凄惨な様相を呈した。
諸外国、特に米英ソから持ち込まれた最新式の迫撃砲、機関砲、機関銃を備えた中国軍のトーチカは七百から八百も峻厳な山岳地帯に配備し、日本軍の攻撃を阻んだ。それでも日本軍は死体の山を築きながら突撃し、ついに十月二十七日午後五時三0分、武漢三鎮を完全に占領した。
このような激戦の最中にあって、なんと俳句を交換していた軍人がいた。九江の馬頭では補充部隊をのせてきた船から商品の箱が毎日千も二千もおろされ、そのかわりに傷病兵がのせられて後方へ送り返された。
立つこともできない傷兵たちは担架のままで小雨のふる桟橋にずらりと並べられ、やがて船の上から積み荷につかうウインチが網をおろして病兵を二人ずつのせては空高く吊り上げて行った。兵隊は吊り上げられた空間で、後送されてゆくさびしさに涙をながしていた。
沖には軍艦が何隻も碇泊していて、下流からのぼってくる駆逐艦がこれらの間を縫ってゆきながら手旗信号をおくっていた。
   ツツオトニキョウモクレタリソコウタイ  (砲音に今日も暮れたり遡江隊 )
信号は俳句であった。尖鋭な姿をした艦は灰色の平たいデッキと錯雑した輪郭とに闘志を見せてしずかに遡ってゆく。すると碇泊中の艦からも手旗信号が送られた。赤と白との旗がこまかく美しくひらひらした。
    チョウコウハイツカスムランアメノアキ   (長江はいつ霞むらん雨の秋)
   桟橋ではまだ傷病兵の吊り上げがつづいていた。」(「武漢作戦」一一六頁)
これ、武人のたしなみ・・・赤穂義士ばりの風流心ではないか。今どきの「ガキドモ」に読ませてあげあたい。
これらの俳句を詠んだ兵士はその後どうなったであろうか。中国奥地まで揚子江を遡り、駆逐艦、輸送船が航行してゆく。
 

「戦死公報」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 2月14日(木)16時08分35秒
  沖縄でまた女子中学生が米軍に暴行された、という。まずは「真の独立国」のあるまじき実態である。米軍基地の中に「沖縄」があるといわれるゆえんである。これ元を糺せばすべて無謀な「戦争」にたどりつく。「天皇の軍隊」もかっては、中国大陸、その他で到底この広場に書けないような野蛮な行為をしたのある。ずっと、わが父が中国戦線であの「南京虐殺」に関与したかどうか、気になっていた。丁度従軍日記が遺品の中にあったので、日付けを追っていらべてみたら、まったく「関与」していなかったことがわかりホットした。(20年前であった)大陸を北上し、また南下して「武漢攻略」中に大別山登はん中、手榴弾一発で「見事戦死」した父の遺品(皮のチョッキ、国防婦人会から贈られた日の丸の旗、軍隊手帳など)を時々虫干しする。戦死状況の公報は表具店に頼んで金ぶちの巻物にして残してある。直属上官が先ず状況を書き、中隊長、さらに大隊長の順に書いてある。ここに示すのは
直属上官が書いたものである。(多分、滅多に読むことはないと思うので掲載した、母あてに送られてきたものである。 赤い罫線で仕切られてあり、欄外に“陸軍”と印刷されている。)
「御良人吉次殿には当戦地到着以来小銃手或いは軽機弾薬手分隊長代理として大に活躍せられ定遠城の攻略を始めとして土樓子及意義深き除州大会戦等において抜群の功績を樹てられ殊に漢口攻略の緒戦たる劉家崗八00高地の大激戦を終えて大別山脈の戦闘に入り銃砲弾雨飛の中を物ともせず勇戦奮闘実に赫赫たる武勲を挙げられ候処十月一六日、支那河南省商城県張福店の東南方天狗山の占領に方り険峻無比なる岩盤を登攀して強敵を制圧中計らずも敵の手榴弾を受け脊髄骨折兼肩胛部右下腿破片創を被り十月十六日午後六時三十分実に壮烈な名誉の戦死を遂げられ候段嗚呼真に哀悼の至りに堪えざる次第に御座候 御両親様始め御家内皆々様の御心中如何計にて候哉深く深く御察し申上候
さりながら此の御犠牲こそ我大日本帝国の戦捷を齎し得たる所以に有之英霊に対し深甚の敬意を表すると共に感謝の涙禁ずる能はす候 茲に謹みて深厚なる弔意を表し切に御冥福を御祈り申上候
         昭和十三年十月十九日 歩兵第六十五連隊第二中隊
                           中隊長代理 伊勢亀鬼子雄
 

息抜き 続き

 投稿者:大洗五歳以下  投稿日:2008年 2月14日(木)14時44分43秒
  恥ずかしそう・あらハッチーじゃないの
新聞 テレビで 知ってます。 昔はお世話になりました。
と言いました。私は「電気喉頭で」カタコトこちらこそタダでと耳元で言いました。

35歳のおばちゃんが 50年たつと おばちゃんどころでは有りません、便所コオロギが
歩いているようです。

また、どうですか? と言われそうで、 アハハハハ。

家に帰ったら 愛ちゃんがなぜか 若く見えました。

しかし、皆さん 50年の月日は 何もかも 破壊しますねぇーーー。
 

息抜き

 投稿者:大洗五歳以下  投稿日:2008年 2月14日(木)07時43分8秒
  息抜きに
しかし、世の中、人を呼ぶなら噂で呼べで
そのおばちゃん、まだ生きてました、昨日お墓で会いました。
私が軽く頭を下げたら、あちらも笑みを浮かべて 恥ずかしそうに・・

アッ愛ちゃんに見られたら・・またの機会にね。
 
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「首切り場」の写真

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 2月13日(水)13時16分56秒
  時代が時代なので、重い話から始めることをお許しください。まあ、その内軽い話も出てくるでしょう。何しろ、1ッポン指でたたくので、なるべく文章は節約します。悪しからず、行間をもお読みくだされば、あり難い幸せ。
昭和十二年七月七日―。
蘆溝橋事件を機に日中戦争が勃発した。
父はそれ以前にも昭和八年六月二日、現役兵として独立守備歩兵第五大隊第四中隊に入営した。その後、編成改正で独立守備歩兵第十六大隊第三中隊に転属、同年十二月一日より昭和九年四月三日まで満鉄本線の守備。その後各地で匪賊・馬賊討伐のため出動戦闘、翌九年十一月帰休除隊になるまで、満州で過ごした。(なぜか博多の芸者を馬賊芸者という、馬に乗るのがうまいのか)ここに「満州事変記念」のアルバムがある。
写真には「軍司令官草刈大将」、「司令官武田中将」、「大隊長丸山中佐」、「中隊長野田大尉」などの表示があり、その他「橘中佐戦死之墓」、「万里の長城」、「満州の花嫁」、「上流婦人」などの写真とともに漫談家「大辻司郎氏」が女性とダンスをしている写真もある。大辻司郎は昭和二七年四月九日、日航機「もく星号」に塔乗中、三原山に激突、八幡製鉄(新日鉄の前身)社長三鬼 隆らとともに三十七名全員非業の死を遂げたが、墜落の原因は謎である。(アメリカの軍用機が故意に狙って撃ったという有力説がある)
それともう一枚、これはいまだに家族にも見せていないが、「首切り場」と書かれた写真がある。手首を縛られた人間が、首を丸太の上に載せられ、一メーター以上もあると思われる大きな挟みで首を切られている写真である。その側にはすでに切られたと思われる首のない死体が横たわっている。
切っているのは短剣をさげた日本軍とみられる兵士である。それを大勢の兵士と他の人が見物している。(この写真と情景がそくっりのものが、「日本軍はこうして中国を侵略した」中国平和の旅写真集編集委員会=(株)アイネック学術出版=に掲載されているが、場所不詳となっている。)
はたして、父がこの虐殺に関与していたのかどうか、知る術もないが父のアルバムに収められていることは厳然たる事実であるから、たとえ戦意高揚のために配布された写真だとしても、日本軍が中国で行った行為は否定しようがない。首を切られる者が、匪賊、馬賊であり、たとえ共産ゲリラであったとしてもこの蛮行は日本軍が犯した一大汚点であろう。(高校生の頃、この写真を初めて見て、ショックを受け、吐き気を催したことを憶えている、その後、養父が軍関係の遺品と共にダンボールにしっかり梱包し人の目にふれぬようにしておいた。)
満州から帰った父は、福島市駅から歩いて10分のところに理髪店を開業(かなり後まで残っていたが、当時としては二階建ての白亜のモダンな建物であった)昭和十一年四月母と結婚し、翌年一月私が生まれるや同十二年十一月十六日臨時召集が下令された。軍隊手牒には、同二十四日歩兵第二十九聯隊留守隊第六中隊に入隊とある。翌十三年十月十六日に中国河南省大別山天狗山攻撃中に敵の手榴弾を受け戦死した。この頃、理髪業を手伝っていた弟子も別な戦線で戦死した。会津若松連隊から陸軍の便箋に「戦死状況」が母あてに送られてきた。
 

夢太郎さまへ

 投稿者:大洗五歳以下  投稿日:2008年 2月13日(水)09時55分45秒
  ご足労お掛け対しますが、後世に残る小説を是非よろしくお願いします。

しかし、マツダの三輪自動車の小さな荷台に、18人乗り
お墓にお盆に行った時に 警察が運転手に「あなた酔っ払っているのですからゆっくり
と走りなさい」と優しく注意したのを覚えております。

モチロン父が運転手でした、素晴らしい時代でした。^ ^

そういえば、私は無免許で 三輪自動車で運転して 運転教習所に通いました。

教官が流石に運転はうまいですねぇーーと誉めてくれました。

大変大らかな良き時代でした。 そういえば今に思えば35歳くらいの飲み屋のおばちゃんが
昼間来なさいと言ったので 気軽に行きましたら ただでやらしてくれました。

エイズも何も無い時代ですから安心です、「良き時代でした」

夢太郎さん、素晴らしい自叙伝 よろしくお願いします。

追伸・そういえば、私が帰る時に、近所のおやじさんが、飲み屋に昼間から来ました。
(今に思えば、私とマラ兄弟だったのかも)???

良き時代でしたねぇーーー。
 

始めるにあたって・・・

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 2月12日(火)19時59分54秒
  総管理人殿のすすめにより、また本欄を汚すこととなった。ご容赦願います。
月日の経つのは実に速いものである。
この前定年になったとおもったら、もう11年が経ってしまった。
こうしている間にも身近な人が幾人か生死の間をさまよっている。重いことだ。
私は定年まで平凡なサラリーマンとして生きてきた。
冷静に考えてみれば、とかくはみ出し勝ちの自分にしては、妻がいうように「よくもった」方ではないかと思う。大体が、考えていたこと、言ってきたこと、やってきたことにさほど一貫性があったわけではない。むしろ場当たり的に生きてきた。特に「あさはか、ひとりよがり、思い込み、矛盾だらけ、おちょこちょい、酒呑み」として生きてきた。
そして、定年後は組織に縛られることがなくなってから、自己矛盾が如実にあらわれるようになった。そして自分の死についても考えるようになった。
会社時代の同期の者が十名以上はすでにこの世にいない。学生時代の親友も亡くなっている。さらに定年後一緒に飲んだ竹馬の友が2年続けて亡くなった。
全く人の運命のはかなさを思い知らされた。いずれは自分の番であるが、これがいつなのかが判らない。もう少し生かして欲しい、という生への執着もあれば死への恐怖もある。実際、自分の運命もいつどうなるかわからない。そして現実をみれば将来がどうなるわけではない。世の中は悪い方に進んでいる。
特に高齢者は今後ますますただ生かされているだけというそら恐ろしい事実に突き当たる。自分に勇気があるなら、将来他人様や家族に迷惑が係らないうちに自分で自分の身の始末をつけたほうがよいと考える。誰もいない山林にでも行って自動車の排気ガスで死ぬのはどうか。あるいは青酸カリを飲むのはどうか、しかしなかなか手に入らないだろうとか、鳥兜の根っこをかじったらどうかとか、あれこれなるべく楽に死ねる方法がないかと考えている。もっとも自分で死を選ばなくても、いつ突然あの世にいくかもしれない。そこで死ぬ前に何かを残したいとおもった。昭和十三年に日中戦争で戦死した父は祖父が与えた皮のチョッキと軍隊手帳を残して死んだ。それを見るたびに自分も強く生きようと頑張ってきた。しかし自分にはこれほどインパクトのあるものは残せない。虎の皮のように立派なものでなくてよい。
自分にも人並みの歴史があり、物語がある。そしてこれまで、親、兄弟、親戚、先輩、後輩、同僚と多くの人々のお世話になり生きてきた。そしてその関りのなかで、喜び、悲しみ、挫折し、再起し、永らえてきた。それらのことどもをすべてを描くことなど到底できない相談であるが、多少なりとも生きた証を残したいと思う。
  それに今日まで何一つまとまったこともしていない。このあたりでひと区切りつける意味で自分史らしきものをまとめておくのもよいと思った。しかし、長い文章を書くのは苦手であり、冗漫に流れるのは眼にみえている。 なるべく悲惨なテーマ、面白いテーマ、興味あるテーマを選びながら2〜3日を区切りとして、筆を進めてみたい。
 

夢太郎さんへ

 投稿者:大洗五歳以下  投稿日:2008年 2月12日(火)09時54分37秒
  よろしくお願いします。
まさか、60年前は、日本が いや世界が こんなスピードでこんな世界にとは?

学校より家の仕事しろ 小学生くらいの女の子が お金持ちの家に 子守に出されました

しかし、家にいるよりご飯が食べられた おやじの一言で家の事は何でも決まる・今と反対です。
農家のお嫁さんは家畜以下でした 土間でご飯を食べておりました・当たり前の農家の光景でした モチロン畳でなく筵(むしろ)でした

農家で有りながら 麦飯でした 白米は葬式のお手伝いの時だけでした 「米の飯」←お手伝いさんはこう呼ばれました

醤油の入ったオニギリは物凄いご馳走でした 農家では魚なんて見た事有りません

鯉 鮒 泥鰌 くらいが年に数回食べれるだけです

だから年に一回の 新嘗祭はご馳走を村上げてつくりました そのご馳走も今に思えば
粗末なもので 里芋にイカを入れたもの 特にタコ マグロなんて庄屋の家だけです

今に思えば 黄ガレイが魚では最高の煮物でした 赤魚はまだ無かった

マグロなんて腐っても 赤ければ平気で 食いました しかし、人間昔は食中毒なんて無かったような?

それより栄養失調で 頭に腐りの出来物が多く子供に見られました

モチロン太った子供など 一人もおりません
骨が裸で遊んでおりました 服は兄は姉ちゃんのお下がりで 継はぎだらけです

靴はなく ゲタでした、歯が無くなると 何かの接着剤で 歯だけ継ぎました
靴下は無く 足袋でした 穴の開いてないのは有りません

こちら 那珂湊 平磯 大洗 旭 鉾田 鹿島 はイルカが肉で
それもメッタに食えません モチロン豚肉なんて見た事も有りません

ブタは飼って育てましたが 誰が食ってたかは誰も知りません

では 夢太郎さんに バトンたっちいたします 私の独り言は もう品切れです。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

バトンタッチです^^

 投稿者:橋暮慎吾  投稿日:2008年 2月11日(月)22時28分19秒
  ボクよりも多くを経験している夢太郎さんやハチヤンのお話は薀蓄もあり、人生の師と位置づけております。
たった2週間の連載でしたが座布団は暖めておりました^^よろしくお願いします。
 

ご苦労さまでした

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 2月11日(月)21時58分27秒
  橋暮さん、ご苦労さまでした。痔の描写、真に迫って秀逸でした。「直木賞」候補もんですよ・・「おな痔釜の飯」を食うことのダンケツ心、これぞ大和心です。いざ、行け 日本男児(痔)
それでは、次にまた始めましょう。「昭和に生きた証」をくだらなくつづることにい
たしますが、例によってあっやこっちゃに跳びますので悪しからず・・明日から始めます。
 

このコーナー愛読の皆さんへ

 投稿者:大洗五歳以下  投稿日:2008年 2月11日(月)18時28分25秒
  間も無く、夢太郎さんの、自叙伝が掲載されるようです、昭和初期〜現代までの
我が日本の歩みなど、盛りだくさんでの、連載を期待して下さい。
ラジオも電話もテレビも何にも無い時代が田舎には有りました。

しかし、なぜか何処にでも リヤカーは有りました、 「リヤカー」と言っても
今の若い人は解らないようです。

モチロン肥え汲みなんてのも、知らないようです。
新聞紙でケツを拭いたのも知らないようです。

また、不思議とバナナが貧乏人は食べられないのも知らないようです。
今は、バナナは貧乏人でも誰でも食えるのに。

頭は男は全員坊主だったのも知らないようです。しかし、チョイ前までが遠い昔になりました。

食べ物に賞味期限は有りませんでした、田舎の駄菓子屋は三年前のお菓子を平気で売っておりました。

家の親戚は 四畳半の家で 家族七人で暮らしておりました。キット子作りに難儀した事でしょう。

また、共同便所の為に 家から 30mも離れた所に便所が
寒中はそれはそれは寒かったでしょうが、誰も泣き言言いません。

夏は外の縁台で 賭け将棋に 近所の親父らが大騒ぎでした。
喧嘩も年中やっておりましたが

不思議とミソ 醤油などの 貸し借りは 笑いながらしてました。
その頃は 殺人なんて 聞いたことが有りません。

不思議な時代でした、私の二十歳の頃は 千円でキャバレーで三人で
がぶ飲みしました。 良き時代でした。

中学一年の時に 水戸の富士食堂で食べた カツ丼は今の一番美味い食い物より美味かった。

そういえば、いま亡き親父に 小学三年の時に 水戸でうな丼を食わせてもらった。
これは、今の天皇陛下も 食ったことの無い 絶品の絶品だった。

そんな親父にも、食ってかかった、今の自分に泣けてきます。

「親思う 心に勝る 親心」
今に今さら この詩の重みが 胸を押しつぶします。

お粗末ながら 夢太郎さんが お書き下さるまでの ざれ言です。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

ありがとうございます

 投稿者:観客  投稿日:2008年 2月11日(月)16時01分1秒
  楽しく熟読させて戴き感謝いたします。
下手な小説家より小説らしいです。

こんどは奥さんとの、なり染めなどの 短編小説などよろしくお願いします。
 
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痔エンド

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 2月11日(月)12時21分58秒
  生き生きとした描写は、時に食欲を失くさせ、時に自身を病室にいるような錯覚に陥れました。
替え歌の詞は、最高ですね。元唄の著作権利者に使用料を払ってでも録音をして、それを病院内に流せば楽しい病院になることでしょう。
 
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「Gの組曲」最終回

 投稿者:橋暮慎吾  投稿日:2008年 2月11日(月)09時59分5秒
編集済
  「仮名文・なんて鳴くの・・金くれー金くれーーーと 鳴くんだよーー♪・♪・」
素晴らしい歌をありがとうございます。仮名文のテーマソングにしたいと思います^^

さて、入院生活も1週間前後は天国のようだが、さすがに10日目となると飽いてくる。看護婦さんにお尻をさらすのもすっかり慣れてしまい、入院したての頃のいろいろな感動もない。風呂にも入れるようになった。
すっかり先住者になってしまい、新入りの世話を焼く程度である。
昼間っから本を読み、飽いたら将棋などを指し、ラジオの音楽を聞きながらウトウトと眠ってしまう・・・・・こんな怠惰な生活を送っていていいのだろうか・・・・・。
と、すっかり油断している頃にオソロシイ体験が待っているのだから、やはりこの病院は楽しい!?^^
入院後2週間目のことである。
14日目の朝、いつものように診察室に列を作る。いつもは看護婦さんに呼ばれ、3つ並んだ処置室でバンソーコーのつけかえで終わるのだが、今日は先生の待つ診療室へと導かれた。
初めて訪れた時のように、いつもの診療スタイルをとらされ、肛門周辺に油のようなヌルヌルしたものを塗られた。
「また指で触診するのかな・・・・」と思っていたら、突然息がつまった。
何か、異様なモノが入ってきたのを感じた。
「ぎょえ〜〜〜!!」と叫びたいほどの痛みと違和感!必死にこらえたが、「う〜〜〜〜」くらいは言ったかもしれない。
急に「スポッ」と抜かれて、「はい、終わり」と先生は言ったが、しばらくは起きあがれない。
やっと、上半身起きて、「せん・・せい・・・今のは・・・?」と聞くと、「ああ、痛かったかね?これは肛門鏡といってね・・・」と、件の器具を見せてくれた。
直径3cmほどもある試験管のような筒状のステンレス製の器具である。ふたつの柄がついてあり、逆バサミになっている。ふつうのハサミは握ると刃先も閉じるが、コイツは握ると筒がタテに割れて開くのだ!(3cmが6cmに広がるのだ!!)
先生は人の肛門をこんなオソロシげな器具を使って中の状態を見ているのであった。
さらに、肛門鏡を閉じると肉を挟むので、開いたまま抜くのである。
ボクは診察を終え、階段を登って部屋に帰ったのだが、診療室を出ても、まだお尻に何か挟まっているような感じで、ついガニマタで歩くのだ。
それを見ていた体験者は「あはは、やられたね^^」と言って笑って過ぎる。
ボクは「ウ〜ム、処女を失った時もこんなモノだろうか・・・」と不謹慎な事を考えながら病室に戻った。

さっそく他の患者にこのコ〜モンキョウの恐怖を言いふらす。
美形のネ〜チャン(25歳くらい)なんぞは、肛門鏡の診察とわかった時は先生に「やさしくしてね」と言ったらしい。これには先生の方が顔を赤らめてしまったそうである。
この悪夢のような診療は退院まで続いた。
オソロシイことに、2回目・3回目になると、これもまた慣れてしまうのだ。人によると10回も続ければ快感さえ覚えるという・・・^^
4回目の朝、ボクは退院を言い渡された。(快感を覚える前で良かった^^)

その後14年経つがボクのお尻は一度たりとも痛い思いをしていない。
この先生、撮影したビデオを持って学会などに発表しているらしい。
近隣の県からも患者がやってくるという名医であった。
ボクのお尻が多くの人々の目にさらされるのは恥ずかしい思いだが、ボクの体験談が少しでも痔に悩む人々への参考になればと思い筆を置くことにする。
                                                               完

(この作品は2004年04月に仮名文HP「くれぐれ草」に発表されたものです)

キチャナイ投稿にお付き合い頂きましてありがとうございました^^
 

↓そうですか

 投稿者:大洗五歳以下  投稿日:2008年 2月10日(日)18時23分53秒
  私もそう思います、クダラナイ歌ほど 名曲が多いのですねぇーー
そのクダラナサに大衆は酔います
文学詩を仮名文バンドで歌ったら、誰も相手にしてくれません。

「仮名文・なんて鳴くの・・金くれー金くれーーーと 鳴くんだよーー♪・♪・」
はい、これを持ち歌にどうぞ。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

「Gの組曲」

 投稿者:橋暮慎吾  投稿日:2008年 2月10日(日)10時02分45秒
  ■第3章 =楽しい入院生活=その3

痔には大きく分けて3種類ほどある。
一番多いのがおなじみの?脱肛(イボ痔)というやつ。
この手術は前記のとおり、至極簡単である。
次に多いのが痔瘻(じろう)というやつ。これは、肛門周辺のオデキなどが化膿してトンネル状になって、トンネルが直腸にまで達するとあらぬところから便が出てくるというやっかいなやつである。
こうなるとお尻は相当切られる。イボ痔に比べて快復も遅いようだ。
比較的少ないが、狭窄(きょうさく)というのもある。肛門が狭くなってエンピツのような便しか出ない。
肛門を広げなくてはならないから、これも手術はやっかいなようだ。
ボクの院内調査では脱肛が患者の6〜7割を占める。痔瘻が2〜3割で、狭窄は1割いるかいないかであろう。

ある日、婦長さんが患者の前でこう言った。
「お尻はウォシュレットで洗浄するだけでは不完全です。ウォシュレットの水をかけながら、手のひらで洗いなさい。」
患者達は一様に「エェ〜〜〜!」といった感じである。
ボクは非常に素直な性格なので、そうしないと看護婦さん達に失礼であろうと思い、実行してみた。
トイレで用をたすと、ボタンを押して洗浄する。更にボタンを押して水を止め、手のひらでゴシゴシと洗う。また水をかけて洗浄・・・・・待てよ、右手はビショビショ・・・。このボタンはどうやって押すんじゃ!!
ボタンは右側にある。ウカツにもボクは右手で洗ってしまった。左手で右側のボタンを押すことは不可能である。
ボクはこの窮地を脱出するべく、冷静に考えた。とにかく、ここを出ることだ。
ガラガラとトイレットペーパーを引っ張り出し、とりあえず右手を拭いたが、なんとなく使う気になれない。
左手だけでぱんつとズボンをあげ、左手でドアのノブを回し、左手でドアを閉めて手洗い場でセッケンを使ってゴシゴシと洗った。
その後、右手はなんとなく放射能汚染されたような感じで、しばらく使う気になれなかった。
以後、2度と手で洗浄しなかったことは言うまでもない。

♪手のひらの歌(原曲も同題)

ぼくらはみんな 切られてる
切れているから 痛いんだ
ぼくらはみんな 詰ってる
詰っているから 苦しいんだ
手のひらでコ〜モンを 洗ってみれば
やり場に困る ボクの右手
イボジだって ジロウだって キョウサクだって
みんなみんな 切れているんだ 友達なんだ・・・(つづく)

(後日この替え歌を院内で発表すると大ヒットしてしまった^^)
 

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