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夢太郎様皆様

 投稿者:夕涼美&ミント  投稿日:2008年 3月17日(月)10時40分19秒
  応援励まし感想おおきにーーー
すんごい大変な2日間でした 何度も心臓が口から出そうでした^^好きな歌だからこそ恥も外見も考えずにチャレンジしました^^ たくさんの出会いがありました。いろんな方達にエール頂きました。会館のトイレでは観客の人達に握手求められました 爆(これぞ臭い仲)
後ほどブログにかきこみたいと思います。

http://www.amigo.ne.jp/~amg0517v/

 


息抜き独り言

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月17日(月)09時01分59秒
  チョセンチンチョセンチントパカニスルナ
オナジメシクッテオナジクソシッテオナジマンコシテナゼワルイ
「大昔こんな会話が流行りました、子供心にキット差別してたようですね」
今は ニッポンチンニッポンチントパカニスルナ・・・・・・このようです。
 
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そのものズバリもある!

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月16日(日)22時10分1秒
  今日はミントさん出演の「ノド自慢」を夫婦で拝見した。
さぞかし、大変だったろうと、推察している。「予選」を勝ち抜くことは容易ではない。
よくぞ、「挑戦」されたと、その意欲と奮起に敬意を表します。勝負は時の運、運とは、体調・環境・相手だ。この三つが完全に一致しないといけない。しかし至難の業だ。
NHKは事前にミントさんの実力と現在の活躍を知っていたからこそ、八代亜紀さんとミントさんの会話の場を用意したのだ。(1秒単位で進行している放送で「偶然・勝手」に八代さんが近寄ってきて、話をするなどありえないのだ)ミントさん、どうか今後とも自信をもって歌い、活躍してください。これまであなたに3曲歌って頂き、現にニッポン放送からも配信しており、評判は上々ですよ。また私はあなたに歌って頂いた曲をCDにして親戚・知人・友人に配布しております。皆さんに喜んで頂いております。あり難いことです。さあ、胸を張って、堂々と更に前進あるのみです、そして「挑戦」は美しいことです。・・・・

上を「交流欄」に投稿したところ、何と「満員」でダメダとそれでこっちにきました・・・では俳句の話です。
伝統的な対象として、花鳥風月がある。しかし先刻ご存知の
蚤虱馬の尿する枕もと     芭蕉
のような、ノミ、シラミといった戦後の風景のようなものから、
佐保姫の春立ちながら尿をして    宗鑑
のように、春の姫が立ち小便をする句もある。俳諧とは滑稽なりとはよく言ったものである。
また、
夏みかん酸っぱしいいまさら純潔など   鈴木しづ子(キワドイな、妊娠しているな)
体内にきみが血流る正座に耐ふ        同(SEX中だな)
売春や鶏卵にある掌の温み            同(にわとりのタマゴにアソコを例えたかな)
(「俳句って何?」石 寒太他編)のように、尼さんが目を廻すようなものもある。さらに
ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯    山頭火のようにそのものズバリもある。とても子供にはみせられない。
要するに、きれいな不如帰や都鳥から鴉、雀などの鳥類、鰹、烏賊、蛤など
の魚貝類、桜、梅から雑草まで対象は何でもありである。
ははは・・橋暮さん、大洗住人さん同様、時々「息ぬき」を願います。こちらも、息抜きしますから・・・年寄りは大切にね・・・
続きはあすですが・・・
 

がんばってね〜〜^^

 投稿者:橋暮慎吾  投稿日:2008年 3月16日(日)00時13分20秒
  ジャマをしては悪いのであまり書き込みませんが、毎日楽しみに読んでいます。
ここ数日は特に面白いです^^
 
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 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月15日(土)15時25分38秒
  今日は、いい天気だ。午前中、「古利根川」を散策してきた。我が家から五分も歩けばこの川にでる。それから下流(東京方面)に土手を歩くと、「古隅田川」の河口に出る。春日部市で合流するのだ。
元々、この「古利根川」が本流であった。千住、浅草・向島あたりを抜けて東京湾に注ぐ。埼玉一帯の洪水防止、東北(伊達)に対する防御、お江戸に物資を搬入する必要性から、家康は埼玉の途中から千葉方面に運河を開削して分流したのだ。三代将軍家光の時代に千葉の銚子まで達したという。大体60年かかっている。だから、埼玉の利根は「古く」なった。利根川を千葉方面に掘らなければ、「大利根月夜」の歌も「平手幹造」の物語りもなかったであろう。「古隅田川」の川幅は15mくらいで、「古利根川」に注ぐ、釣り人たちがのんびり糸をたれていた。桜の開花時期は綺麗だ。もうすぐである。さて俳句である。
桑原武夫は俳句十五をならべた。このうち専門家の句が10句、普通の人の句が5個混じっている。さて、皆さんはどれが専門家の句で、どれが普通の人の句であるか、判りますか?という問いかけである。
これに対して、専門家からは当然のように「じゃあ、お前作ってみろよ」という反論があったようだ。これに対して桑原は次のように反論する。
「こういうことをいうと、お前は作句の経験がないからだという人がきっとある。そして、“俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである。”という。(水原秋桜子「黄蜂二号」)ところが私はこういう言葉が俳壇でもっとも誠実と思われる人の口からもれざるを得ぬというところに、むしろ俳句の近代芸術としての命脈を見るものである。十分近代化しているとは思えぬ日本の小説家おうちにすら、小説のことは小説を書いてみなければわからぬ、などといった者はない。
ロダンは彫刻のことは自分で作ってから言えなどとはいわなかったのである。映画を二三十本作ってから「カサブランカ」を批評せよ、などといわれてはたまったものではない。しかし、俳句に限っては、“何の苦労もせずして、苦労をしている他人に忠告がましいい顔をして物をいうことはないと思う”(秋桜子)というような言葉が書かれうるのは、俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事だということをよく示している。」もっともな話である。所詮、「俳句」は「芸事」あるいは、一句ひねってみるか式の「道楽」
だと割り切ればなんとなく判るような気がしてくる。
だから、これは芸術作品だ、歴史に残る作品だ、などという句はめったにできるものではない。今日まで何十万、何百万の句が作られてきたが、人口に膾炙されている句はそう多くない。
虚子もいうように「自分は殆ど毎日のように人より多く俳句を作っているが、それでいていい句というのはたまにしかできない。」(「俳談」岩波文庫二八九頁)と云っている。したがって多くは駄作なのであろう。
桑原武夫がここに示した句はさしずめ大いなる駄作ではないのか。私も駄作を作り始めてもう20年近くなるが、いつまでも俳句もどきである。ちなみに、上にしめした十五の俳句の作者は、一、青畝 三、草田男 四、草城 五、風生 七、井泉水 九、蛇笏 十、たかし 十一、亜浪 十三、虚子 十五、秋桜子である。たは新人あるいは無名の人である。(これら専門家をあなたは何人ご存じでしょうか?)
結局、この話は第一でも第二でも「芸術」といってくれたのだから、いいではないか、と虚子が言ってケリがついたようであるが・・・
続きは明日です。
 
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 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月14日(金)16時29分49秒
  意味不明でも自分がわかっていればよい?  「第二芸術」か
「歌人の麻呂ハッチー」さんの言うとおりです。苦労して、苦労して、旅をして、旅をして、病気をして、病気をして、貧乏になって・・非惨な生涯を送り、そして死んで、ず〜と経ってから、「作詞 こころの広場」は残りますよ・・・「曲をつけて 死んだ 勇士」とかね、皆さんも!?
京都帝國大学の話です。なにしろ偉い先生が「俳句」にいちゃもん?をつけたのですから大変です。桑原武夫が終戦間も無い昭和二十一年に発表した「第二芸術 現代俳句について」は今なお影響力を保っている。ちなみにインターネットで「第二芸術論」を検索するとさまざまな意見にお目にかかれるだろう。(私は「第二芸術論」の概略は以前から知っていたが、原文を読もうと思いつつ怠慢で読んでいなかった。)

この論文は他の論文、例えば丸山真男の「超国家主義の論理と心理」、矢内原忠雄の「民主政治を蝕むもの」など他の論文とともに一九九五年に「『世界』主要論文選」(岩波書店)として復刊された。早速購入した。その論文中に次の句が掲げられている。(これを読むと、オレの方が遥かにウマイゾ!と自信が持てますよ!)

一、芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
二、 初蝶の吾を廻り手ていずこにか
三、咳くとポクリツとベートヴェンひびく朝
四、粥腹のおぼつかなしや花の山
五、夕浪の刻みそめたる夕涼し
六、鯛敷やうねりの上の淡路島
七、其処に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
八、麦踏むやつめたき風の日のつづく
九、終戦の夜のあけしらむ天の川
十、椅子に在り冬日は燃えて近づき来
十一、腰立てし焦土の麦に南風荒き
十二、囀や風少しある峠道
十三、防風のここ迄砂に埋もれしと
十四、大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
十五、柿干して今日の独り居雲もなし

この句について、桑原武夫はこの論のなかで「これらの句を前にする場合は、芸術的感興をほとんど感じないのは菊の場合と同じだが、そのほかに一種の苛立たしさの起こってくるのを禁じ得ない。
…三・七・十・十一・十三・などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。
私の質問した数人のインテリもよくわからぬという。これが大家の作品だと知らなければ(草田男・井泉水・たかし・亜浪・虚子)、誰もこれを理解しようとする忍耐心がでないのではなかろうか。」という。
そして、さらに「わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものではもとよりないが、作品を通じて作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというのでなければ芸術の意味はない。」とも指摘している。もっともである。マッタクです、これらの俳句は「俳句界」の超有名な先生の俳句なのですよ。皆さん、自信を持ちましょう!
世の中にはじつに分からないことが多い。まずお経、絵画、書画…などにもどう頭をひねっても解らないものがある。桑原武夫の指摘はこれらのように解りにくく、独りよがりな俳壇に一石を投じたものであろう。
逆に言えば私のような素人は安んじて句作りに取り掛かることができるというものである。
しかし、これは芸術作品だ、歴史に残る作品だ、などという句はめったにできるものではない。
では、これらの俳句はどなたの俳句でしょう。
続は明日です。・・・
 
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息抜き独り言

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月14日(金)15時25分3秒
  誰が云ったか 誰が書いたか 誰が謡ったか でまったく違うのでは?

私が「夕焼けに 鴉がカアーと 鳴きました」こう書いてもアホーこんなのと笑われるね

しかし、これが山頭火なら?

読んだ人が勝手に 想像を大きくして すごいなぁーーーとなるかもね アハハハハ。
その点・歌詞も同じかも知れませんねぇーー 作曲も。

しかし、名前を売るまでが、相当の血の涙を流すようですね。
楽ちんちんでは何事も 夢精功かも。
 

短い俳句 長い俳句

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月13日(木)19時09分12秒
  俳句は原則として、五七五の十七文字である。しかしそれ以外は不可とい
うことはない。角川書店発行の「名句鑑賞事典」から幾つか抜粋して見よう。

咳をしても一人      尾崎 放哉

墓のうらに廻る       同


春風の鉢の子ひとつ            種田 山頭火

うしろすがたのしぐれてゆくか      同

これらが短いものの代表であろう。これらが俳句なのか、名句なのかと異議を唱える人もいるかもしれない。(実は私も疑問に思っている。)しかし「鑑賞事典」は名句だという。かりに作者が放哉や山頭火ではない「ただのひと」であったとしても、「名句」として辞典に載るのであろうか。

次に長い方はどうか。

万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり   奥坂 まや

家路のくらい飾り竹の風すぐる音   小澤 碧童

さらに長いものがある。
死んで弟は笑って父にふりむいて行った
入営の日の顔が別れか          橋本 夢道

明けりゃ元旦の資本主義社会が厳然としていて
電車の青いスパーク              神代 藤平

この二つは「プロレタリア短歌・俳句・川柳」(新日本出版社発行)に記載されている、れっきとした俳句なのである。どこまでが俳句で、どこまでが短歌・散文なのであろうか、私にはわからない。世の中だから面白いのだろう。
続きは明日です・・・
 

遊女も寝たり萩と月・・・

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月12日(水)20時47分16秒
  翌朝、芭蕉が旅立とうとすると、女たちは芭蕉に向って―なぜ、唐突に、芭蕉に語りかけたのか、不可解なのだが―『道中が心配で心細うございます。見え隠れにもあなたのお跡をついてまいりたいのです…』と、涙を流して頼んだ。しかしながら、芭蕉は、彼女たちの申し出を、やわらかく拒んだ。映画{マルタの鷹}のラストシーンで、悪女の懇願を突き放すサム・スペードさながらのハードボイルドぶりである。このエピソードはいわば出来過ぎている。日本の研究家でも、この部分は虚構と考える者が多いようである。…ひと   や一つ家は市振きっての高級娼家である。芭蕉と曾良が、一つ家に入った知らせは、ただちに追跡者たちの知るところとなった。…萩、月というげん じ な源氏名(源氏物語のじょうめい帖名にちなんだ官女や遊女の本名以外の名前、現代の日本ではリリー、メアリー、モンローなども多くなった。)の美女ふたりは、全裸のまま、浴槽とベッドで死んだように眠っていた。全裸に紺の半纏をまとった芭蕉は、荒い呼吸をくりかえしながら、呟いた。
           Under the roof of Hitotsu-ya
           I slept with two courtesans !
           “Bush clover”and”Moon”
         (一つ家に遊女もねたり萩と月)」(同書一五一〜一五二頁)

これらのパロデイは 芭蕉を崇拝している人々にとっては、目くじらをたてたくなるような内容だが、江戸時代には狂句も盛んで、冒頭の「古池や芭蕉飛びこむ水の音」の句のほかにやはり仙和尚の作として、次の句を紹介して作者はこの書を閉じている。
                気にいらぬ風もあらうに柳かな
これなどは、柳が風に従順にしたがって、逆らわないさまの言葉「柳に風」に同情(?)している
のだろう。
                池あらば飛んで芭蕉に聞かせたい
                古池や何やらぽんと飛び込んだ
      この二句は「古池や」の句をヒントにつくった迷句である。
続きは明日です・・・・やっぱり「芭蕉」と「曾良」は幕府の隠密であった。東北の雄藩「伊達」を探りにみちのくへ行ったのだ。(これは後で書く)
 

「芭蕉」飛び込む水の音

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月11日(火)22時15分23秒
        「古池や芭蕉飛びこむ水の音」
私がこの句をはじめて知ったのは、昭和五十八年七月であった。この頃、書店で「ちはやふる奥の細道」(W・C・フラナガン 小林信彦訳  実は作者=訳者 新潮社)を求めて読んだ。その中で紹介されている仙(一七五○〜一八三七  美濃の生れの禅僧)の狂句だが、この本はなんとも珍妙な本である。この書物は奥の細道のパロデイ(こっけい)で読者を楽しませてくれる。
たとえば次の記述である。「松尾芭蕉は生前のみならず、死後三百年に近い今日まで、日本の、いや世界中の俳句界に君臨している。現在残されている彼の肖像画は、やつれたピーター・ユスチノフのようなものと、中年のハンフリー・ボガードに似たのとがあるが、私は、芭蕉の生き方は、ハードボイルド映画のボガードに通ずるものがあるように思う。(ボガードの「カサブランカ」いいですね、バーグマンもいい。)
       The  old pond ;  (古池に)
       A frog jumps in,― (蛙が飛び込んだ=ジャンプした)
       The sound of water. (水の音がした)

       The old pond―
       A  frog leaps in,
       And a splash.

       An old quiet pond…
       A frog jumps in the pond,
       Splash! Silence again.

ざっと頭に浮かぶだけで、彼の{古池や蛙とびこむ水の音}には、このような訳がある。三つ目は、アメリカの小学生用の訳である。」(同書一五〜一六頁)
また芭蕉忍者説の説では「芭蕉、幼名・松尾金作は、忍者の子として、あらゆるテストに落第したのである。そして、このように見るとき、例の{古池や}の句は、まったく違う意味を帯びて見えてくるであろう。
       古池や蛙とびこむ水の音
古池や蛙とびこむ水の音
そこには、{水ぐも}をひっくりかえして、池に沈んでしまった{不甲斐ない、忍者の子}のコンプレックス、トラウマテズム精神的外傷の叫びがひそんでいる。(この場合、蛙はむろん芭蕉自身をさしている。第二次大戦中、われわれも水中の勇士を{フロッグマン}と呼んだはずである。)
       もう少し、例をあげてみよう。
       A  cloud of cherry-blossoms ;
            The temple bell,―
            Is it Ueno, is it Asakusa ?
         (花の雲 鐘は上野か浅草か)
          鐘の音を聞いただけで、どきっとして、あれは上野からきこえてくるのか、はたまた浅草か、自分はとっさに判断する才能が欠けている、と想い悩むところに、忍者に失格した男のコンプレックスの深さがみられる。おそらく、彼は鐘の音の方角の見当がつかなかったにちがいない。
            How many, many things
            They call to mind,
            These cherry‐blossoms !
          (さまざまの事おもひ出す桜かな)
ついに、彼は桜を見ただけで、かって自分が鐘の方角の見当がつけられなかった記憶に苦しむようになってしまっている。」(同書二三頁) この書は万事このようなギャグとパロデイで綴られている。
芭蕉忍者説と水戸藩は不即不離の関係にあるので、登場人物も徳川綱吉、水戸光圀、すけさん、かくさんこと佐々介三郎、安積覚兵衛 はては柳沢吉保に通じていたといわれる藤井紋太夫も出てくる。
それから、芭蕉のフイクションといわれる市振の遊女の場面は次のような記述になっている。
「『奥の細道』のハイライトシーンと研究家たちに呼ばれるのが、天河の句の次に出てくる市振の遊女のエピソードである。
越後路を越えて、市振に着いた芭蕉は疲れ果てていた。枕を引き寄せて眠ろうとすると、若い女二人の声が聞こえる。老人の声も聞こえるので、じっと聞いていると、女たちは新潟の娼婦であった。老人は新潟へ帰るといい、女たちは、伊勢参宮をする自分たちの身のいかにはかないものか、前世の業のいかに罪深いものであったかを悲しんでいる。それを聞きながら、芭蕉は眠ってしまった。」
それにしても世界中で俳句が詠まれている。日本人の感性が「俳句」に会っているから、「俳句」の体をなすのだろうに・・これを英訳しても何の感興も湧くはずがない。
お遊びと思えばいいのだろうね・・・

続きは明日です・・・
 
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息抜き川柳

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月10日(月)15時25分9秒
  {お満潮に 億万長者も 飲まれけり}・・そーれで身上無ーくした大金持ちもスッカンピン・ああ、もっともだぁーもっともだぁー  お粗末。  

へつらいに出たか城下の・・・

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月10日(月)14時49分31秒
  こっけい俳句の続きです。

雪見にハ酒でなけれバならぬ哉     友松
(「いざさらば雪見にころぶ所迄  芭蕉」雪見にはやっぱり酒がい
い、ただし飲みすぎるなよ、と言われる。)

暁のヘドや隣のほととぎす      其角
(「闇の夜は吉原ばかり月夜哉 」と詠み、蕉門の伊達男といわれた其角は、吉原あたりで飲み過ぎたお隣さんを同情しているようだ)

夕には死すとも蚊なり夏の虫    宗朋
(論語の里仁第四に子の曰く「朝に道を聞かば、夕べに死
すとも可なり」とある。蚊と可の取り合わせとは、滑稽に「論語」が出てくるとは水
準が高い!この論語の言葉は好きだ。「真理」を探究する者はこうでなくては・・・夢太郎みたいに・・ははは)

へつら 諂ひに出たか城下のほととぎす         露川
(昔も今も上にへつらう者はいくらでもいる。ほととぎすお前もか、と。人間は進歩してないねえ・・)

そこで、夢太郎も負けずに一句=漢字だけの俳句です。

「丸之内我醜老醜あ阿諛追従(ゆついしょう)」
(はははは・・城下丸の内またはそのあ た り周囲の話、「損失補填・過剰融資・店舗拡大」「ペパー会社」などで会社を傾けても、何時までも居座っている偉い人がおりました、みんなでその方におべっかをつかっておりました。特にバブル期はヒドカッタ!郭公(ほととぎす)もあきれて鳴くのをやめてしまいました。)
続きは明日です・・・
 

俳句のはじめはアソコだと・・

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月 9日(日)17時45分24秒
  「好きなように生きよう」と言っても、言うほど簡単ではない。いわゆる「生・老・病・苦」で日常、快適な生活を送るのは案外難しい。それでも、気力十分と思っているから、あれや、これやに手を出して、時々自分で収拾不能になるのではないかとの思いがある。そこで俳句の話に戻るが、俳句のはじめは、やっぱり、アソコの話が最初だという。(以下、つれづれに書いてみる。)
      許六が著わした「歴代滑稽伝」によれば、俳諧の始まりは神代の昔、いざなぎの
      命・いざなみの命が天の浮橋で詠んだうたまで溯るという。
      そのうたというのがあの有名な次の詞である。
               あなうれしにえや うまし乙女にあひぬ   男神
               あなうれしにえや うまし男に逢ひぬ     女神
      ただし、日本書紀および古事記によれば、先に詞を発したのは女神のほうなの
      で、男神は女が先にそのような「はしたないこと」を言うものではない、と女神を
      たしなめている。それから二神はお互いの肉体の特徴を確認のうえ夫婦になったの
      である。(わが身体、なりなりてなりあまれるところあり・・)
      その後、俳句は伊勢の神官、守武が出て「俳諧に長じて末世の高祖と称し」て
      「守武千句」をつくったという。千句巻頭を飾る句は

                飛梅やかろがろしくも神の春

                青柳の眉かく岸の額かな

                であるという。(やっぱり日本は神の国ではないのか!)

          次に「近世 滑稽俳句大全」(加藤郁乎編)から面白い句を拾ってみる。

                   骸骨の上を粧ひ花見かな哉          鬼貫
                   (いくら化粧して、奇麗にしても一皮むけば、みな同じ骸骨だ、つま          り美人もブスもみな同じである、墓場にいけばブスも同じだ、失礼!          「広場」のテーマは「美」であるが・・・)

                  きんたまの置所なき暑さ哉      盾山
                   (なるほど。「身の置き所が無い」という文句があるが、あそここそ
                       は身の中核である。うまいことをいうものだ)

                  うその旅して能因のあつさ哉    也有
                  (「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」これ本当に能因
                   法 師が白河へ旅したのか?と疑っている。
しかし有斐閣双書「中古日本文学史」 によれば「この歌は実際に奥州旅行の途中詠まれたものだが、説話では、都で詠んで実感を添えるために旅に出かけたと称して家に篭り 顔を日焼けさせていかにも旅中の作のように装って披露したと伝えられる」とある。= 一五六頁)
続きは明日です・・
 
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俳句と季語

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月 8日(土)19時53分56秒
  「戦後のある時期、私たちは前衛と称されていました。…前衛と言うと、波茶目茶な句をつくって平気な集団のように思われる方がいますが、それは誤解です。俳句で言う前衛とは、そのようなものではありません。
むしろ五七五という伝統形式はきちんと守りながら、ひたすら現在に執して書く。したがって季語だけはもっと幅広い見方をしようというのが、俳句における前衛の考え方だったのです。
俳句が有季定型と言われる中で、定型の方は守るが、有季の方はそれほどきびしくなくていい、ということで、その主張にも、季語は始めからまったくいらないという意見から、季語は基本には違いないが、無くてもいいという意見、季語は絶対に大事だが、ただしおこぼれ的に無季があてもこれは認めるという意見まで、おおまかに三つの見解に分かれていました。
ところがなんでも有季を重んじる人たちにとっては、このような考え方自体が我慢なりませんでした。…彼らはこう考えました、前衛がこのまま現代俳句協会を牛耳り続けるようでは、有季定型はつぶされ、ひいては、それを固持する自分たちの存在もまた消されてしまうと。ちょうどその頃、日本中に巻き起こったのが古典返りの風潮です。
昭和三十五年の六十年安保闘争を契機に日本文化全体がその風潮に傾いたのです。中でもいち早く古典返りしたのが俳句です。
その主張は一言で言うと、俳句は五七五の定型であり、有季でなければならないというものです。それ以外は認めないんです。そして、この動きはついに、昭和三十六年の現代俳句協会の分裂へと発展しました。彼らは有季定型こそ俳句であるというスローガンを掲げ、俳人協会を設立したのです。その人たちは私たち前衛を、俳句の伝統の破壊者と見ました。しかし、ここがおかしいのです。
彼らの固執する有季というのは、伝統でもなんでもないからです。俳句に絶対に季語が必要というのは、高浜虚子の考えであって、それ以前は誰もそうは言っていないのです。芭蕉も一茶も言っていません。そのあたりの誤解が俳句の世界に長い間あって、今、徐徐にですが、修正されているような有様です。」と。(芭蕉も一茶も言っていない!これを読んで初めて知った。皆さんはどうでしょう?)そして、具体的に芭蕉の季語がない句を挙げられている。
「海に降る雨や恋しき浮見宿   芭蕉」

これらの指摘は私ごとき素人に勇気をあたえて頂くこととなった。
私は自分で気分だけは若いと思っているので、あまり「第二の人生」とか「平均余命」とか「老後」などとは言いたくないが事実、死ぬときがいつ来るわからない。いつ、どこでの違いだけである、と思っているが正直なところ不安を拭いさることは出来ない。
すでに学生時代にいっしょに「渡し場」を渡った親友は一編の詩を残して、亡くなっている。五十五歳であった。また会社の「同期の桜」のうち十数名ほどは既にいない。
若くして自ら命を断ったもの、事故で死んだもの、病気で逝ったもの、定年後すぐに亡くなったものもいる。「徒然草」のなかで兼好法師は、四十前に死ぬのがよいと言っている。当時、人生五十年として八掛けである。今、人生八十年として、八掛けならば六十四である。私は既にすぎている。
いつ逝ってもおかしくないし、いつまで生きるかわからない。いずれにしてもすべて天命である。あの世にいくまで、自分を励ましながら生きていこう。体はともかく、定年後青春再びわれにあり、の心意気だ。
これからは、極力好きなように生きようと思う。
続きはあすです。・・・
 
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「俳句」もどきの出発

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月 7日(金)16時57分57秒
  平成四年、草加市が市制三十五周年記念事業として「奥の細道文学賞」を創設した。
私は、芭蕉の句を題材とした随筆(三十三枚)を応募した。芭蕉が詠んだ浅草寺の鐘とその鋳造のため多額の黄金を拠出し、徳川五代将軍綱吉へ妻子を献上する羽目となったお側用人牧野成貞を扱った作品であった。(この頃は、今より頻繁に浅草に通ったものである、ある小料理の女将が娘が山手の男と恋仲になって、相手が嫁に貰いたいと言ってきたが、コチトラは下町のゲスだ、どうにも釣り合わない、今後の交際が大変だし、大体上品に「そうでございますか」などとは言えない、と悩んでいた、当時はそれが普通だったのだろう。中村玉緒の旦那であった勝は、もう浅草はいいよ、オレは世田谷か青山辺りに住みたいよと言っていたが)
しかし選外であった。そのころ多少芭蕉に関する俳論や関連した書物を読んだり、句碑を訪ねたり、非常に充実したひとときを過ごした。
「不易流行」とは芭蕉が発明したという。(「魯町いわく、『不易流行の事は古説にや、先師の発明にや。』去来抄)このことを知ったのもこの頃であった。
まさかこんなところに「発明」などという文字が使われていることはそれまで知らなかった。(勿論、ここでの「発明」は現在、われわれが通常工業製品や特許法でいう発明の概念ではなく、創案、創作というほどの意味だ。
最初から俳句をやっていた人にとっては、そのようなことは常識なのであろう。
それから随分時が流れたが、そのとき芭蕉によせた思いが忘れられなかった。それに何より芭蕉への憧れも棄てきれない。(「奥の細道」は紀行文ではない、虚構が多い。「文学作品」である。いづれ書いてみたい。)
俳句を作ってみよう、上手い、下手は関係ない、と思った。(後世に残る作品など作れる筈がないからだ。)
それは記録でもあり、当時の思いでもある。
まことに無謀あるがやむを得ない。その際、最低五・七・五は守る。
川柳になるか、あるいはいずれにも該当しないものになるか。季語は極力いれるとしてもこだわらない。全く俳句の体は成さないかもしれない。
「俳句」からみれば、邪道、外道に属する。いわゆる“俳句もどき”“川柳もどき”のたぐいであろ。それも承知のうえである。
俳句は「花鳥諷詠」が基本であることは、その道の書物に書いてある。しかしこれにも拘らない。とにかく今からスタートなのであるから、難しい制約を自ら課すことはしないで作ることにした。何故か。
金子兜太先生の「二度生きる」を読んだからである。
現代の俳句界の大御所、金子兜汰先生はその著書「二度生きる=凡夫の俳句人生」で「俳壇分裂」の項で次のようにのべておられる。
続きはあすです・・
 

先生を偲ぶ会

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月 6日(木)17時23分55秒
  さて、帝国ホテルでの先生を「偲ぶ会」だ。
出席者は森繁久弥(車椅子での出席)、さん、NHK海老沢会長、金子兜太先生、俳優では三田佳子さんを筆頭に大勢だ、高校の後輩の佐藤B作さんも来ていた。
司会はNHKの看板アナ黒田あゆみ(当時)さん、来賓挨拶の後、司会者の指名で演台に立った。
目の前が、森繁久弥さん、目を細めて穏やかな表情だ。
話は、私は「戦争未亡人の子」であったので、特に先生に可愛いがられたこと、当時の食料難時代にあっても、ギスギスしないで、遊びやドラマ作りや「俳句会」を教えて頂いたこと。先生のお陰で貧しくも心豊かに育ったこと、他の先生方は数年前まで「軍国教育」をしていたのにコロット変わって、今、「民主主義」を教えているが、「ぎこちない」ことなどを語った後、当時先生が俳句会で激賞したI君の作品、即ち「十五夜に 手をあわせたる 老婆かな」を披露した。(拍手喝采だった)
この句は50年経ても忘れられない。(自分も作ったはずだが一向に思い出せない、ロクな句でなかったからだろう)
この句を作った彼はいわゆる「文武両道」であった。友人の信望厚く、中学時代は同じ野球部でピッチャーであった、県大会で優勝し、彼は商業高校に進み、やはり野球部に所属、晴れの甲子園出場を果たした。
同じ野球部で甲子園に出た公会堂の彼は一昨年10月に亡くなった。また甲子園にはいかなかったが、同中学時代の球友はその前年、急逝した。団地の子供に野球を教えており、丁度日曜日で練習する日であったが、来ないので行ってみたら、今朝早く亡くなったと・・・ああ無情である。二人とも都内に住んでいたので年に1〜2回は銀座で会って飲んでいた。
あの故人になった大作曲家の猪俣公章は2学年下の野球部員であった。彼は世に出てから、母校の中学野球部に道具一式を寄贈している。
今月も中学の「総代」が亡くなった。これも同クラスであった。
小中通じての学年総代であった彼は、小学校時代の学芸会で「野口英世」を演じた。これは学芸会の定番の出し物で、最優秀の生徒が演ずることに決まっていた。私などはバックコーラス要員であった。「♪磐梯山の果てしない姿にも似たその心・・・・・」野口英世の歌の出だしである。
かくして、年は過ぎ行く・・明日から少し「俳句」の話をしましょう。
(桑原武夫の「第二芸術論」など交えて)
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

「大器を失う」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月 5日(水)18時07分1秒
  先生の作品は凄かった。作品(ラジオ・TVドラマ・映画)の一部(受賞作品)を紹介する。

芸術選奨文部大臣賞「NHK「マリコ」(終戦秘話)
   同 上   NTV「海峡に女の歌がきこえる」
文部省芸術大賞
    北海道放送「オロロンの島」(松山善三と)
    ニッポン放送「シルバーグレイの空間」
    中日放送「おとうちゃん」
    NHk「海暮色」
文化庁芸術作品賞
    TBS「上海幻影路」
    NHK[ベルリンが歌っていた](三国連太郎主演)
これを書いていたら、キリがないが、続ける。
日本アカデミー賞
東宝・電通・毎日放送「植村直己物語」(映画を見た人も居るだろう)
国際賞・国際共同制作作品
 TBS・中国広播電視部「望郷の星」(長谷川テルを扱っている)
NHK・フランスアンテナ2「ビゴーを知っていますか」(明治時代日本にきたフランス人画家の物語)
仕事・ソ連映画公社モスクワフイルム(ソ連邦金羊毛賞「未来への伝言」
北海道放送・中国遼寧省テレビ(中国銀獅子賞)「林檎の木の下で」
NHK・ドイツSFB・ドイツWDR(モンテカッルロ祭批評家賞)「冬の旅」
NHK・ドイツZDF・アメリカABC「ザ・ラストUボート」
テレビ岩手・中国黒竜江省テレビ(中国獅子賞)「北の米」
向田邦子賞
TBS「定年・長い余白」(小林圭樹主演、この方にもお会いして話した)
他に、「放送文化基金賞」「ギャラクシー賞」「日本民間放送連盟賞」「文部省芸術祭優秀賞」など、それに「著作」(NHK出版から3冊、三笠書房から2冊、近代文芸社から「ドラマ特選集」がある)が、キリがない。
先生は「鉄道員(ぽっぽや)」が公開中の1999年6月に急逝した。70歳であった。

見出しの「大器を失う」は金子兜太先生が新聞に弔意を表して書いた見出しである。
わざわざ、長々と作品を列挙したのは如何に幅広く、大きな視野で世の中をご覧になっていたか、またこのコラボの凄さである、世界中の放送局や関係者とどれほど親交を結んでいたかだ。
後日、帝国ホテルで盛大なお別れ会(しのぶ会)が挙行された。「日本放送作家協会」の理事長でもあった先生の冥福を祈るため、各界から大勢の方がみえられた。
私はそこで「教え子」代表として演壇に立ち、先生との思い出を語ることになった。
続きは明日です・・
 

俳句ことはじめ

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月 4日(火)16時23分34秒
  そうですね、戦争はないことが一番ですが、悲観的ですね・・
兵器や兵站物資を売って儲けて生活している企業や国家がありますから、彼らとて従業員の生活が掛かっています、だから必死ですよ。悪くいえば、「ほどほどの戦争」を望んでいるように見えますよ。

ところで、続きですが、小学校時代は校庭で野球ばっかりやってましたね。
あるいは、公会堂にくる公演をただで見てました。管理人の息子さんが親友で家もあるいて5分くらい。
当時、どこでもロクナイベントホール(こんな言葉もありませんでした)がありませんから、まあ、20〜30万の中小都市では、大抵公会堂か劇場が一つか二つでした。近くに故猪俣公章の家がありました。
戦後なにも無い時代、綺麗に着飾った歌手や踊り手は憧れの的でした。「りんごの歌」の並木路子、奈良光枝、渡辺はま子、伊藤久男、霧島昇・・松竹少女歌劇団、前進座の歌舞伎、クラシックでは諏訪根自子のバイオリン・・なんでも公会堂に来ました。楽屋裏から入り、間じかにスターをこれほど見たのは、天下広しといえども子供では私と管理人さんの親友ぐらいでしょう。
それから、六年生のときには「代用教員」で背の高いまだ二十歳の先生がきました。早稲田を中退しての一時的先生です。ホームルームの時間は毎朝野球です。ほかのクラスの羨望の的でした。この先生、あとで世界的劇作家になります。
一番判りやすいのは高倉 健のポッポやの脚本を担当しましたね。なにしろ「社会派」の作家です。ドイツ、フランス、中国との合作で映画・TVを作りました。日本では三田佳子さんはよく出ていました。なにしろ、当時からNHKF局でラジオドラマから始め、後上京して大活躍です。
そして、授業中に我々にラジオドラマの作り方を教えるは、「俳句会」を教えてくれて俳句を作らせるは、どこか違いましたね。今でこそ「俳句」は俳句甲子園大会だのどこぞのお茶やさんが大募集だのやっているが、あの時代「俳句会」をやったなんて言う、同学年もその前後もいませんでした。会社にも何処にも・・へえというものです。
ところが、先生はちゃんと「文化人」と付き合っておりました。当時、「日銀F支店」に日本俳句界の大御所となられる「金子兜太」大先生がおられました。
私はこの大先生と帝国ホテルでお会いし名刺を交換しました。また三田佳子さんとも話をしました、写真も撮ってもらいました。何故でしょう?
続きは明日です・・
 

息抜きの浅学

 投稿者:政治に無関心人間  投稿日:2008年 3月 4日(火)11時07分36秒
  軍服を脱いだ
ジャーナリスト
「その時歴史が動いた」

昨日再放送見直しました。

軍人は職業だから仕方ないが
最後の犠牲者は何所の国でも一般弱い大衆の皆さんでした。

軍人軍隊 帝国日本を貶すわけでは有りません
日本を思う気持ちは同じかも知れませんので。

しかし、戦争とは永遠に無くならないのかも知れません。
泥棒、殺人が無くならない様に。

男が女を取り合うように、人間の貪欲は人間の滅びるまで続くでしょう。
一番かわいそうな生き物は人間かも知れません?
 
お得なプロバイダーとくとくBB

校庭にサツマイモ

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月 3日(月)16時51分20秒
  5〜6名の上級生に囲まれた。
校舎の裏手だ。「この靴はナンダ?」「誰から買ってモラッタ?」と。
「お母さんだ」(大叔父に買ってもらったが、面倒なので、オカアサンと言った)
「ナンダ?オカアサンだと」(私は母を「カアチャン」などと言ったことは一度もない、従兄弟たちもそうだ。祖母が猛烈な教育ママであった。その兄は高文(高等文官試験=司法・行政とも)に受かって、北海道の高官であった。この試験に受かる人は県に何人もいない時代だ。その叔父のところに母は娘時代に行儀見習として入っていたのだ。だから、結構、躾も厳しいものだった。自分でも母をいつから「おかあさん」と呼んでいたのか判らない。)
「なに?カアチャンだろう」と言う。
自分の胸ぐらを掴み、編み上げの靴を、ふんずけた。
私は「腕には覚えあり」であったから、ソイツをおもいきり殴った。
不意をくらって飛んでった。他の連中もビックリして目を丸くしている。多勢に無勢でこっちは不利なので、すぐ小石を拾って投げつけて、撃退した。
翌日、学校中の評判になっていた。それ以来、誰からもイジメられたことはなかった。
その後、校庭に防空壕作りの砂運び、終戦。市内から疎開先の郊外の亡父の実家で「天皇」の玉音放送を聞いた。
何を言っているのか、聞き取れなかったが、「戦争」に負けたことは判った。
泣いている者は誰もいなかったように思う。みんなホットしたというのが本音だろう。
それからがまた大変であった。折角、校庭に作った防空壕の解体作業だ。上級生は材木の取り払い、我々は土砂の取り除き、夏の暑い最中の作業である。子供心に「コノバカヤロウ」と心で叫んだ。
さらなる追い討ちは「食料難」であった。今度は校庭にサツマイモを植えるという。バンバンと硬くなった校庭を「耕作」したのだ。やがて、犬のチンポぐらいのイモがとれた。
それを盗まれると困るので、PTAが交代で夜、見張りに歩く・・・人間不信だ。
続きは明日です・・
 
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