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誠に人の心とは そのようなもので

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 3月30日(日)17時44分51秒
  明るい声の中に、何か災いめいたものがあり。
お祝い事の言葉の中に、憂いがあり。
お見舞いの言葉の中に、喜びの声がある。
誠に人の心とは そのようなものでしょうか(^^ゞ
 


息抜き(実話編)

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月30日(日)16時01分37秒
  こちらで割腹自殺未遂事件が昔ありました
腹の皮皮をそろっと10センチくらいきりました。
家族は大騒ぎで救急車をよびました 救急隊員が駆けつけて
即バンソーコを張り 一件落着しました。

大事でなく 近所の皆さん 「ガッカリガッカリ」して 「しょんぼり」帰りました。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

「割腹自殺」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月29日(土)16時09分59秒
  4月第一(土)は靖国神社で「同期の桜」を歌う会が開催される。小生、平成16年春の「第20回靖国神社の桜の花の下で{同期の桜}を歌う会」に行った。小野田さんも来賓としてきていた。大鳥居をくぐり、「大村益次郎銅像前」に特設ステージが開設される。この時期、靖国神社にいくと、先ずは目に付くのは「予科練」の横断幕と日の丸、それと海軍旗である。まだ生存中の元兵士たちが集まって、お国のために殉じた戦友を偲び、鎮魂し、旧交を温めるのだ。靖国の境内は花見の客で満員になる。そこで「軍歌」の大合唱である。ベートーベンの第九並だ。「同期の桜」「暁に祈る」「戦友」「若鷲の歌」「ああ紅の血は燃ゆる」いづれも「名歌」だ。
「歩兵の本領」はこうだ。
一、 万朶(ばんだ)の桜か襟の色
   花は吉野に嵐吹く
   大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
   散兵線(さんぺいせん)の花と散れ
二、尺余の銃(つつ)は武器ならず
  寸余に剣(つるぎ)何かせん
  知らずやここに二千年
  鍛え鍛えし大和魂(やまとだま)
三、軍旗を守る武士(もののふ)は
  すべてその数二十万
  八十余箇所にたむろして
  武装は解かじ夢にだも
(大体、今の自衛隊も20〜25万人であろう。立派な                 軍隊である。
今年もまた靖国に行かねばならぬ。)

阿南惟幾(これちか)陸軍大臣遺書を残し割腹自殺を遂げる。
神州不滅を確信しつつ・・・・
「 遺書・一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル
大君の深き恵にあみし身は
   言い遺すべき片言もなし」
阿南惟幾、略歴=明治二二年(一八八七)東京牛込で出生。
明治三三年、広島地方幼年学校へ入校。同三七年、陸軍士官学校へ入校。
大正四年、陸軍大学校へ入校。同五年、陸軍中将竹下平作次女綾子と結婚。
同八年、参謀本部部員となる。同一二年、サガレン派遣軍参謀となる。北樺
太へ渡る。昭和五年、支那駐屯軍へ派遣される。同一二年、補陸軍省人事局
長。同一三年、任陸軍中将。山西省太原の師団司令部に着任。同一四年、黄
河東岸山西軍主力殲滅戦に参加。同一六年、漢口第十一軍司令部着任、湖南
作戦開始、長沙占領。同一七年、漢口発。同一八年、ミンダナオ島ダバオ仮
司令部進駐。同メナド地区トモホンよりシンカンへ移駐。同二○年、任陸軍
大臣。同八月十五日、自決。
「阿南惟幾伝」(沖 修二 著  講談社)は彼の句を伝えている。
セレベスを出発し、スラバヤ、シンガポールからサイゴンを経て阿南が福岡の飛行場に着いたのは昭和二十年一月八日だった。
        敵機にも見放されたる年の暮れ
という、かれの句がある。スラバヤの海軍司令長官(第二南遣、河瀬四郎中将)らに離任の挨拶を済ませ、その夜偕行社に陸海軍の関係者を招待し、在任中の感謝のことばを述べ、別離のさかずきを酌み交わしたのだった。おそらくこの句はその後で作られたものだろう。
元旦にスラバヤを発つ予定だったが、搭乗機の故障で予定が狂い、修理が出来るまでの三日間スラバヤに足止めをくったのだった。
        元旦は空へも行けず山登り
        故障機のおかげで休むお正月
        山なれば正月らしやセレクター
右の三句はそのときの作だが、暑いサラバヤも山頂は寒かったのだろう。
やはり寒いくらいでないと正月らしくないね、と阿南は持参の酒を、副官とわかちあって酌み交わすのだった。
短歌はとも角、これらの句は義理にもうまいとはいえない。歌も俳句もわしのは見よう見まねの我流でねと、阿南は自分でも言っているように、ただ十七文字の枠にあてはめて書きつらねたのだろう。(こころ強い方が居たのだ、それも大臣だ!)
出発の予定は狂ったが、阿南は落ち着いていた。もともとかれはあくせくする方ではなかった。歌や俳句を作るのも、自分を落ち着かせる手段だと割り切っていた。
偕行社に矢場があれば早速弓を手にしたことだろう。
そして、かれがよくいう“精神の沈静”にひたったことだろう。
弓のやれないときは木刀の素振り二百、それが早朝の阿南の日課だった。
サイゴンで南方総軍の寺内元帥に離任の挨拶を終えると阿南は、総軍の総参謀長に就任していた沼田中将を呼んで、ルソン方面のくわしい情勢を聞いたのだった
。なんとかマニラに立ち寄れないものだろうか、出来ることならルソンに立ち寄り、レイテの敗戦以来苦しい戦いに明け暮れている、親友山下奉文を訪ね、激励の言葉をかけてやりたい。それが阿南の腹だった。なんとかならないかね、という阿南の言葉に、沼田は比島第十四方面軍が当面している凄惨な米軍の反攻と、苦闘しているルソン島友軍の情勢をつつみなく語って、阿南の立ち寄ることの危険を説いて押しとどめたのだった。
もうそのころの比島全域の制空権も制海権も、米軍の手に完全に抑えられていた 。…」(二二三〜二二四頁)
八月十五日の夕刻、自決した阿南陸相の遺体は永田町の仮官舎から、市ヶ谷台の陸軍省に移されだ び荼毘に付された。(小生、時々この辺りの病院に検査に行っている)
昭和四十二年三月十日、それを記念してつつましい記念碑が建立された。その文字には「陸軍大臣・陸軍大将・阿南惟幾荼毘の跡」がある、と「阿南惟幾伝」は伝えている。
           万乗に奉げん 赤心此処にあり
            腹召すや 神州不滅 君の恩
           鞘ばしる大和心の白牡丹
           大将に 武士道見たり 蝉の声   ・・・以上 瑠山(十七文字並べたり)
 

↓お答えします

 投稿者:クボヤン  投稿日:2008年 3月29日(土)10時40分59秒
  予科練を唄った曲です。

タイトル:若鷹の歌

作詞:西条 八十

作曲:古関裕而
 

息抜きに

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月29日(土)10時23分6秒
  今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦に・・♪・・
七つボタンは 桜に錨・・♪・・ 胸に焼き付く名文句

歌のタイトル? 作詞家? 作曲家?  誰か知ってますかー? 歌手は?
 

玉音放送「負けたべな・・」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月28日(金)19時58分33秒
  昨夜は一足速い花見であった。日本酒を結構飲んで、久しぶりに「朋遠方より来る」で二次会に行った。銀座はさながら不夜城だ。イタリヤ料理屋に入りワインを飲んだ。ちゃんぽんは翌日に残る、午前中は二日酔だ。さて、「敗戦」である。負ければひどいことになる。知らん顔の指導者もいたし、無責任な指導者もいた。
開戦に至る経緯を検討してみるとき、軍部内主戦派の最大の政治目標が、天皇自身に開戦を決意させる所にあったことに気づく。
対米戦の勝算に対する不安から、時として開戦にためらいをみせる天皇の存在は、その限りにおいて彼等の政治的障害であった。しかし、そのことは逆に、天皇自身の決断が、開戦決定の上で、決定的な意味を持っていたという事実を浮き彫りにしていると言えるだろう。この点については、開戦時の国務大臣、鈴木貞一も天皇が戦争回避の決断をすれば、「流れは変わった」として、次のように述べている。「戦争か、戦争をやめるかという時期の決断というものは、それは流れに従うことは誰でもできるんですよ、そうじゃなくて流れに逆らってピシャッとやることは、これはもう余程の力でなくてはならない。その力はね、日本には陛下以外にはないんです」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)。
その意味で、開戦の決定は、あくまで、天皇及び宮中グループの主体的選択であった。(同書八三〜八四頁)
開戦の結果、敗戦である。
不思議なことに為政者もマスコミも「終戦」という。「敗戦」ならば、一体誰のせいで負けたのかと責任を問われかねない。だから、あたかも,  ,   ,自動的に戦争は終わりました、と言わんばかりである。フザケルナ!と言いたい。
何事もあいまいな国、日本にふさわしい現象である。
堪え難きを耐え 忍び難きを忍んだのは無辜(むこ)の民なのだ。
F市郊外、実父の家に疎開していた。藁葺き屋根の農家であった。
そこで寝起きし、夏の暑い時期なので近所の川で水浴びをして遊んでいたら、集合せよと呼び出しを受けた。天皇の放送がある、という。総勢十四五人ほどがラジオを囲んだ。
あまりいいラジオではない。(満足ラジオなど普通の家では持っていない時代だ何を言っているのか、よく聞き取れなかったが、日本は戦争に負けたことを知った。
玉音のかしこみて聞くぼろラジオ
赤褌(あかフン)を パンツに替えて 負けを聞く
蚊帳つらず 何時まで語る 負け戦
民草は叡慮の裁断(さばき)にしたがいぬ
「負けたべな」 涙ながしぬ 大人おり
  続きは明日です・・・
 
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「天皇の戦争責任」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月27日(木)13時44分2秒
  「昭和」は戦争を挿んで激動の時代であった。「敗戦」からの困難な時代を乗り切り「昭和元禄」時代を迎えた。今、TV、新聞、音楽、出版一斉に「昭和」を懐かしいでいるように感じる。また、それは江戸時代のペリー来航の以前の比較的安定していた「江戸時代」への思いと重なって見える。書店へ行くと兎に角、「江戸時代」の本が山積だ。特に東京は「オリンピック誘致運動」の影響もあるとにらんでいる。さて若干、「天皇の戦争責任」問題について「識者」の意見に耳を傾けてみようと思う。私は昭和16年の靖国神社の春の例大祭に祖母、母と共に「遺族」の一人として靖国神社に招かれた。天皇がこられたが、いつおいでになったか、判らない。ゴザに坐って頭を下げていただけであったから。
天皇大権の実態=天皇の戦争責任問題に関連して、敗戦直後から現在に至るまで、次のような見解が根強く唱えられてきた。すなわち、憲法上の規定の問題では確かに天皇は、統治権の総覧者であり、陸海軍の統帥者であった。しかし、大権の運用面では、天皇は、「天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其の責ニ任ス」る国務各大臣や、統帥に関する輔弼責任者である参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)の決定を尊重し、たとえ不同意であっても、内閣や軍部の一致した決定には従うという「立憲的」姿勢をとり続けてきた、というものである。
天皇裕仁自身も、戦後そうした趣旨の発言を繰り返し行っているし、また、この議論こそが、天皇に戦争責任なし、と主張する場合の最大の論拠でもあった。
しかし、歴史の現実をくもりのない眼でみるならば、こうした見解自体が成り立たないことがわかる。
天皇は、必要と感じた場合には、様々な形で自らの政治的見解を積極的に表明したばかりでなく、自らの政治的意思を断固として貫徹することが少なくなかったのである。(「天皇の昭和史」藤原彰・吉田裕・伊藤悟・功刀俊洋著 新日本新書 四二頁)
ならば「太平洋開戦時」はどうであったか。同書は「一一月五日の御前会議」の項で次ぎのように記述している。
東条の組閣後、一○間にわたって開催された大本営政府連絡会議の結論も、やはり、「戦争」であった。これを受けて11月5日に開催された御前会議は、「武力発動ノ時機を12月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」という内容の「帝国国策遂行要領」を決定した。この段階では、もはや天皇自身も開戦を堅く決意していた。当時の海軍大臣、嶋田繁太郎大将は、この日の日記に、「御前会議終了後に即刻御裁可あらせられしことは、既に長き間の御熟慮、御決意の結果と拝せられ、恐懼(きょうく)に堪えず」と書き留めている(「嶋田繁太郎大将開戦日記」)。
また、御前会議に先立ち、11月2日には、「帝国国策遂行要領」の内奏が行われているが、参謀本部第二○班「機密戦争日誌」によれば、その場の様子は次のようなものであった。「(参謀)総長既ニ御上ハ決意遊バサレアルモノト拝察シ安堵ス。東条総理涙ヲ流シツツ上奏ス。総理ニ対スル御上ノ御信任愈愈厚シ」(「戦史叢書 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯」)。天皇は東条首相を深く信任しつつ開戦を決意したのである。
さらに、12月1日の御前会議は、最終的に、米・英・オランダに対する開戦を決定した。「杉山メモ」(上)は、この御前会議の場における天皇の様子を、「オ上ハ説明ニ対シ一々頷カレ何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ」と記している。
こうして、12月8日には、陸軍の第二五軍がマレー半島に上陸、海軍機動部隊がハワイの真珠湾を空襲して、ここに太平洋戦争が開始される。
開戦に至る経緯を検討してみるとき、軍部内主戦派の最大の政治目標が、天皇自身に開戦を決意させる所にあったことに気づく。
対米戦の勝算に対する不安から、時として開戦にためらいをみせる天皇の存在は、その限りにおいて彼等の政治的障害であった。しかし、そのことは逆に、天皇自身の決断が、開戦決定の上で、決定的な意味を持っていたという事実を浮き彫りにしていると言えるだろう。この点については、開戦時の国務大臣、鈴木貞一も天皇が戦争回避の決断をすれば、「流れは変わった」として、次のように述べている。「戦争か、戦争をやめるかという時期の決断というものは、それは流れに従うことは誰でもできるんですよ、そうじゃなくて流れに逆らってピシャッとやることは、これはもう余程の力でなくてはならない。その力はね、日本には陛下以外にはないんです」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)。
その意味で、開戦の決定は、あくまで、天皇及び宮中グループの主体的選択であった。(同書八三〜八四頁)
開戦の結果、敗戦である。
不思議なことに為政者もマスコミも「終戦」という。「敗戦」ならば、一体誰のせいで負けたのかと責任を問われかねない。だから、あたかも自動的に戦争は終わりました、と言わんばかりである。
何事もあいまいな国、日本にふさわしい現象である。以下3つ・・・瑠山作
             堪え難き 忍び難きは無辜(むこ)の民
             敗戦を 終戦と言えり みことのり詔
       ひめゆりを抱いて散り逝く乙女かな・・・沖縄旅行(ひめゆりの塔参拝)
続きは明日です・・・
 

アムール句会289回

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月26日(水)20時45分59秒
  何しろ「悲劇」である。戦争はやってはいけない。皆んな幸福に生きる権利があるのだ。二度とこのような「句会」があってはならない。・・著書に帰る。
「寒鯛に十年の箸をとりにけり 梅城 」
「祖国近し掌に受く雪のすぐ溶けて 文哉 」
句会は二百八十九回を数えた。
辺見氏は「あとがき」でいう。
「ハバロスクの強制収容所で昭和二十九年八月二十五日に死去した山本幡男氏の第七
通目の遺書が山本家に届けられたのは、昭和六十二年の夏の日のことだった。山本
氏が世を去ってから実に三十三年目にあたる。
届けたのは、横浜市保土ヶ谷に住む日下齢夫氏、アムール句会の“梅城”氏である。
…広大なソ連領内の各地に設けられた俘虜収容所は約千二百ヶ所、その所在地も、
東はカムチャッカから西はドニエプル川の流域、北は北極海に近い極北の地から南 はパミール高原の西麓という広大な地域に点在している。
それらのラーゲリに収容された約六十万の日本人のうち、極寒の異郷の地で飢えと重労働の
日々、望郷の思いを抱いたまま果てた人びとの数は、一割を越える七万人以上といわれる。 山本幡男氏もまた、ダ モイ帰国の日を待ちわびつつ死んでいった人びとの一人であった。しかも、 強制収容所で氏が秘かに書かれた遺書が、戦後も十一年ぶりに帰還した友人たちにより、記憶”という尋常ならざる手段によってほぼ完璧な形で遺族に届けられたのである。こ うした例は、空前絶後のことといえるのではなかろうか。」
続きは明日です・・「俳句」はひとまずこれで終わりです。後ほど「俳句」のハイライト「芭蕉」に行きたい・・・
 
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「アムール句会」

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月25日(火)22時16分19秒
  前に、ここに書いた「邪馬台国」の連載中、火野葦平が奥さんを世話した盲目の「宮崎康平」(「まぼろしの邪馬台国 」の著者で「島原の子守唄」を作った)のことを紹介したが、この物語が映画になってこの秋、公開される、との記事が今日の朝日新聞夕刊に掲載された。主人公に竹中直人、妻に吉永小百合だ。九州各地でロケを敢行、撮影は終盤との由、楽しみにしている。さて昨日の続きだ。
アムール句会のことにも頁をさいて著わした本が「収容所から来た遺書」だ。著者は「作家、詩人、歌人」という万能の辺見じゅんさんだ。角川書店の創業者のお嬢さんである。
これは、時間と労力をかけた力作のルポである。敗戦時の満州とソ連軍の侵攻の悲話である。・・・ソ満国境を越え、ソ連軍が侵入してきた。
武装解除された日本軍の兵士や満蒙開拓団や民間人がソ連の捕虜となり、ソ連全域に点在
する強制収容所で労働に従事させられた。
辺見じゅんさんはこの「収容所から来た遺書」(文藝春秋社刊)によって、その実態をあますところなく記述した。
「ハバロスクは、ソ満国境を流れるアムール河とウスリー江の合流地点にある。作業現
場のヤグラの上から眺めると、晴れた日にはアムール河の対岸のはるかと遠くに、満
州の山の撫遠が見える。中国名で黒龍江と呼ばれるアムール河に、山本の満州時代を
懐かしむ気持ちもこめられているように思えた。
山本のアムール句会のメンバーは、初めのうちは第六分所からいっしょの森田と新森
だけだった。相変わらず収容所の目を盗むようにして、翌日が作業休みという土曜日の
夜に山本の寝起きする蚕棚に車座になって行れたり、日曜日の午後、宿舎のバラッ
クの裏や洗濯場の隣の空地で、雑談を装って集った。」(同書八○〜八一頁)
捕虜になり、過酷な強制労働を強いられながらも、句会を催す。こんな国民が他にある
だろうか。私はこの情景を思い、胸が熱くなった。
脈脈と流れる伝統の力、武人の魂といったものであろう。
「普請場に燕大きく来りけり   栗仙 」
「独房の秋を得たるは蝿の友   宇山 」
「生くことは悦びといふ木の芽見る 虻郎 」
最後の句会は昭和三十一年十二月におこなわれた。
引き揚げ船興安丸の船上であった。
続きは明日です・・・
 
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ソ連収容所での俳句会

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月24日(月)20時56分40秒
  一応小面倒くさい、「俳句」の「判例」これで終わり、俳句に関するもう一つのエピソード(挿話)を紹介する。
終戦時から「ソ連に連行」され ての収容所における「句会」である。若干、当時の模様を引用してから紹介する。「七月末までに、極東ソ連軍はソ満国境の東・西・北の三正面、それに付随する作戦として朝鮮北東部・樺太・千島を攻略するために、配置全体として兵員百五十七万七千二百二十五名、大砲と迫撃砲二万六千百三十七門、戦車及び自走砲五千五百五十六台、戦闘機三千四百四十六機を展開し、海軍としては日本海軍による北朝鮮沿岸の基地化の阻止と、日本海での海上連絡確保、ソ連沿岸への日本軍の上陸に備えて、巡洋艦二隻、嚮導艦(きようどうかん)一隻、水雷艦十二隻、哨戒艦十九隻、潜水艦七十八隻、機雷敷設艦十隻、掃海艇五十二隻、飛行機一千五百四十九機を用意し終わっていた。
(日本の)国境や陣地作業の兵隊たちはこのような数字を知らずに最後の瞬間を迎えた。…」(五味川純平著「虚構の大義」文芸春秋 一八三頁)
ワシレフスキー元帥を総司令官とする極東ソ連軍がソ満国境に展開した兵力と装備は、装備も薄弱で訓練精度も低い関東軍七十万に比べて、質・量ともに圧倒的であった。ソ連はこれらの兵力を三つの方面軍に編成して、一九四五年(昭和二十年)八月九日零時を期して、一斉に行動を開始したのである。(現在の「北方四島」問題の原因であるから、この記述は重要だ)
これに対し十日、陸軍大臣布告が発せられた。
「全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国を寇(こう)す、名分如何に粉飾すといえども
東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲(ここ)に至る、又何を言わん、断乎(だんこ)神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。仮令(たとえ)草を喰(は)み土を齧(かじ)り野に伏すとも断じて戦うところ死中活あるを信ず、是即七生報国(ちしちしょうほうこく)『我一人生きてありせば』という楠公(なんこう)救国の精神なると共に、時宗の『莫煩悩(ばくぼんのう)』『驀直進前(ばくちょくしんぜん)』以って醜敵を撃滅せる闘魂なり、全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、かして又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅(きょうてき)に驀直進前すべし。 」(資料 明 治百年 朝日新聞社編=一部新かな使いに修正)
この布告は、なんとおお大時代な言い方であろう。
ソ連の侵攻を遥か七百年前の蒙古襲来(文永・弘安の役)に擬し、この“国難”          に際し、あれこれ迷うことなかれ(莫煩悩)と宋の禅僧無学祖元から諭(さと)されたという北条時宗の故事をもってくる。
よく読んでもらいたい。続きは明日です・・・
 
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チョビット息抜き

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月24日(月)06時25分59秒
  無いチンガールを大事にすることは
男は当たり前です。^ ^
 
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「蓑虫」談義ー大田道灌

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月23日(日)23時45分3秒
  下の題はこう入れようと思って、ワードから貼り付けた字句を修正、加筆しょうとゴチャゴチャやってるうちに、間違ってENTERキーを押したら、下の如くです。失礼しました。
世の中、随分デタラメですからね。さっき散歩しながら、ラジオを聴いていましたら、「吉田拓郎」も字あまり、字足らずの歌を、声張り上げて歌っていたそうですね。彼のフォークが「デタラメ」の本家だそうですね。そしたら、次に、フォーク大嫌いというアーチストが作ったフォークはデタラメという歌を歌っておりました。ラジオは面白いですよ。政治家も官僚も商人も、音楽も俳句も要するにデタラメのオンパレード(総出演)じゃないか、医療だけ例外でなければなりませんが・・・そうは行かないらしい・・・だけど大方の皆さんは一生懸命やっているに違いない!ハチャンさん、そうじゃないでしょうか?ナイチンゲールさんに申し訳ないですよ。
 
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 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月23日(日)23時23分58秒
     Xの俳句「波の爪 砂をつまんで」という表現が「砂浜に 波が爪たて」に改められている。
         原句のなかで桜貝に用いられた比喩(「砂をつまんでいる波の爪」)と添削句の比喩(「砂浜にたてられた波の爪」)とでは、読み手の受け取る感情はかなり異なったものである。
原句の比喩からは、Xの桜貝へのやさしい感情が読み取れるが、添削句の比喩からは、桜貝への攻撃的感情が読み取れる。
二句目はどうか。「網目」が「綱」に改められている。Xは詠む対象に「綱」ではなく「網」を選び、メロンの表面の網目模様と、引き上げる網の網目とを重ね合せる表現の工夫を試みたようである。添削句では、表現の対象そのものが替えられ、そのような独創的な表現の工夫は取り除かれてしまっている。選者の添削の限界を明らかに越えていると思われるのは、Xのやさしい表現を攻撃的な感情の表現に歪めた改変と、描写の対象そのものを網から綱に替えた表現の改変である。
以上のように、本件改変は、同一性保持権の適用除外である「やむを得ないと認められる改変」には該当せず、またXの添削への包括的同意を前提に考えてみても、選者のなしえる添削の限界を超えた著作物の核心にかかわる改変であり、Xの同一性保持権は侵害されたと解すべきであろう。(同書一一○〜一一一頁)
と評している。これは適切な論評ではないか。著作者人格権は、「公表権」(著作権法一八条)、著作物を公表するかどうか、その時期、方法をどうするかについて決定する著作者の権利。「氏名表示権」(一九条)、著作物にいかなる表示をするか、本名、ペンネーム、雅号などの表示を決定する権利。
「同一性保持権」(二○条)著作物の完全性を保持し、無断でこれの変更、切除、その他の改変をする者に対し異議申し立てができる著作者の権利である。
この著作権法二○条二項で「改変」が認められるのは教科用図書への掲載または学校教育番組の放送のために著作物を利用する際の用字、用語の変更、建築物の増築、改築、修繕、模様替えによる改変、プログラムの著作物の場合にはバグの修正、ヴァージョンアップなどの場合、その他「著作物の性質ならびにその利用する目的及び態様に照らしてやむをえないと認められる」改変である。
投句者Xは裁判には敗れたが、世人の目は節穴ではない。
自身の創作の核心である「思想・感情」がかけはなれた「添削」をうけて入選して、なんの喜びがあろう。それはもはや自分がつくった俳句ではない。他人のものなのだ。(今後投句する場合は、「私の句は添削・改変お断りいたします」と「事実たる慣習」に従わない旨の「意思表示」をしておいたたほうがよい。   もっとも、どう添削されようがかまわないという人はその必要はない)

三句目についての戸波氏の論評は本稿にはないが、以下は私の感想である。
原句      みのうえに 蓑虫銀糸の 雨も編め
添削句    蓑虫の 蓑は銀糸の 雨も編む
      原句にはるかな広がりを感じる。蓑はカヤ、スゲ、シュロなどで編んだ雨具である。いまはなかなか見られなくなったが、昔は農家の入り口あたりに掛けてあった。
  みのうえは自分の「身の上」かもしれない。無情にも雨がしとしと降っている。わが身に重ねあわせて「蓑の上」にいる蓑虫の身を案じているのかもしれない。
   蓑から連想するのは、「仮名手本忠臣蔵」四段目、梅雨どきのことである。おかるを売った五十両をめぐって繰り広げる凄惨な場である。蓑を纏った勘平、猪を追う定九郎や殺される与市兵衛の姿である。
  あるいは、桜田門で井伊直弼一行を待ち受ける農民に扮した水戸脱藩の浪士の面影である。
さらにおおたどうかん太田道灌(一四三二〜八六 室町中期の武将、江戸城を築いた)の物語りである。
道灌が武蔵野の山吹の里(現在の豊島区あたりという説がある)に狩に出てにわか雨にあい、蓑を借りようと思って一軒の農家を訪ねる。
すると一人の少女が出てきて蓑ではなく、黙って山吹の一枝を差し出した。道灌はなんのことか解らなかった。
帰城後臣下から「七重八重花は咲けども山吹の みの一つだになきぞ哀しき」という古歌の説明を受けた。少女は古歌にことよせて、我が家には蓑はありませんと断った、というのである。
蓑一つない少女の「身の上」に道灌はいかなる感慨をいだいたであろうか。
道灌は自分の無学を恥じ、以後一心不乱に勉学に励んだという。
       こ あん孤鞍 雨をつ衝いてぼ うし茅茨を叩く
       少女ため為におく遣る花一し枝
       少女言わず花語らず
       英雄のしん ちょ心緒乱れて糸のごと如し=と漢詩にある。(詠み人知らず)
私が連想する「みの」はそのような「蓑」である。
心は乱れて糸のごとき道灌を思うのである。この「みのうえ」こそ句の生命であると思う。
  後年、道灌の身の上に異変が起こる。主筋に殺されるのである。
添削句は理屈で字面を並べたようでなんの感興も湧かないのである。
 

息抜きチョビット

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月23日(日)10時55分52秒
  看護婦 看護士 ・両者しっくるめて 看護師 看護婦は もう死語になったのですか?
近頃看護婦の言葉が聞こえなくなりつつ有りますが?

白衣の天使・なんてのも死語になったのかも? 近頃患者さんが威張り看護婦さんをいじめるようですが?

また、看護師さんが、ご高齢の患者さんをいじめる話が多くなりました 医師と看護師と患者と患者の家族のトラブルに・私は何故か虚しさを感じますが?


皆さんはどうおもいますか?  ナイチンゲールの教えを知ってる人は教えて下さい・?
 
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続判例

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月23日(日)00時08分1秒
  これら裁判所の判決に対し、解説者の戸波美代氏(著作権研究所 専任研究員)概略次のように論評している。カッコ内は筆者。
一、著作権法二○条の同一性保持権の規定は、著作者の意に反する著作物の変更、切除、改変を禁止している。裁判所は、選者が投句を添削のうえ掲載するという「事実たる慣習」が存在することを認定し、同一性保持権を民法九二条にいう任意規定と解し、これに「事実たる慣習」を優先させた。しかし、同一性保持権は、著作者の一身に専属し、譲渡することのできない著作人格権(著作権法五九条)である。
二、著作者は、その意に反する変更、切除、改変が、二○条二項の適用除外に該当する改変である場合を除き、この権利を主張することができるはずである。
三、裁判所は、「事実たる慣習」の認定のさいに、通常は句会の会員のみが購入する結社誌の投句欄と一般の新聞、雑誌の投句欄を同様に扱っている。しかし、特定の句会に属さない者が購入する一般の新聞、雑誌の投句欄について、このような「事実たる慣習」が認められか否かはなお明らかではない。(たとえば現在は子供もどんどんは俳句をつくっている。子供は俳句界にこんな“慣習”があるとは知らないのではないか。子供の作品といえども本人の承諾なく、添削・改変をすることは本来著作権侵害である。)
四、なお、二○条二項の適用除外規定のなかで、本件が考慮される余地があったのは、四号の「著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」である。
一審、二審ともこの適用除外規定には言及していないが、俳句という芸術的著作物の性質、利用の目的、態様からは本件改変がこの規定にの定める「やむを得ないと認められる改変」該当しないことは明らかである。(適用除外規定にふれていないでよく裁判ができるものだ。このような裁判官がいる限り、日本の裁判は救われない。裁判官はこれらの重要条文をよく吟味する義務がある、何のための条文か。自身の職責を貶める裁判官の忠実義務違反ではないのか。)
五、本件では、選者を指定したXの添削への包括的同意を前提に、選者による添削の限界について検討する必要があったと思われる。
続きは今夜です・・
 
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俳句の「著作権」裁判

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月21日(金)23時15分7秒
  マッタクですね、外国語氾濫ですね。
(反乱起こしたくなりますね)私は「国粋主義者」ではありませんが、つくづく「日本人」は優秀ではないかと思いますね。これには「無宗教」「八百万」(やおよろず)が関係すると思っています。偏る思想や宗教がないので、自由に出来たのでしょう。漢字や古代朝鮮語(いづれ話します)を読み書きして、カナをつくり、ヤマト言葉のひらがなを作り、それにポルトガル語、英語、ドイツ語・・など輸入し使っている。こんな国民は世界中探しても居ないでしょう。従って、もっと「日本語」に誇りと自信を持って、大切にしなくてはと思いますよ。この論者も指摘しているように「俳句」でさえ「文法」をめちゃめちゃにして平然としている、有名は俳人(廃人じゃないか?)も居る。(外国ではこんなことは許されない、実利本位のアメリカぐらいかも、何でも短くしたがる!)
特に「音楽」では「桑田ケイスケ」みたいのが出てきて「日本語」を破壊したと思う。あの歌い方は何じゃな、ケシカラン!あれで本人はいい気分で歌っているから、救いようがない。
日本語で歌うなら、ちゃんと歌わんかい!
すこし趣を変えよう。裁判沙汰の話である。
著作権判例百選(「別冊ジュリストNO、157」有斐閣)に「入選句添削事件」の顛末が紹介されている。まず俳句から紹介する。俳句の作句(創作)者はXである。
創作者Xの三句
    「波の爪 砂をつまんで 桜貝」
     「井戸水から メロンの網目が たぐらるる」
     「みのうえに 蓑虫銀糸の 雨も編め」

     選者Y2の添削句
     「砂浜に 波が爪たて 桜貝」
      「井戸水から メロンの綱が たぐらるる」
      「蓑虫の 蓑は銀糸の 雨も編む」
   創作者Xは某放送出版社 Y1が編集、出版する俳句雑誌の一九九三年から九四年の三号にわたり、選者をY2と指定して投句した。(前掲創作者Xの三句)
ところが、選者Y2によって添削され、雑誌には添削句がXの入選句として掲載され、販売された。
Xは、俳句を改変した行為及び改変句を掲載した雑誌を販売する行為は、Xの著作者人格権を侵害し、名誉を毀損するとして損害賠償を請求した。
しかし、一審の東京地裁、控訴審の東京高裁さらに上告された最高裁でも創作者Xの主張は認められなかったという。
主たる理由は、(一)俳句の世界には古く芭蕉の時代から、選者が芸術、指導の観点から添削・指導という慣習が存在する。そして、その点は我が国近代俳句の創始者とされる正岡子規以後も同じである。
選者と投句者との関係が結社誌におけるほど緊密ではない新聞、雑誌の投句欄においても、古くから、選者による添削が行われてきた。
(二) 同一性保持権を規定する著作権法二○条は、民法九二条にいう「公ノ秩序ニ関セサル規定」、すなわち任意規定であると解される。さらにXが俳句を投稿するにあたり、添削を拒む旨の意思を表明したとの事情はうかがわれないから、九ニ条にいう「当事者カ之ニ依ル意思ヲ有セルモノト認ムヘキトキ」に当たると認められ、これら添削・改変行為はいわば俳句界における“事実たる慣習”にしたがったものであるから許容される。(ここは少々解説を要する。先ず民法九○条に「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」とある。この条項により、たとえば、ある人を殺したら一千万円払う、という契約のように犯罪をさせ、またはさせないために金品を与える契約をしてもその契約は無効である。おおやけ公の秩序に反するからである。
また愛人となって毎月手当てを貰う契約なども、家庭の基本的秩序に反し、善良の風俗に反する行為として無効とされる。だから“セックスしたのに男が金をくれない”と、訴えても元々無効な契約だから裁判所はとりあってくれない。これらを「公序良俗」に反する行為という。このように必ず守らなければならない規定を“強行規定”という。
それに対し、公の秩序に関係がなく当事者の便宜のために設けられている規定を“任意規定”という。では法律行為=ここでは選句、改変、雑誌の販売と慣習とはどのような関係になるか。任意規定と異なる慣習があるときは、当事者が慣習に従う意思をもっていた場合には、裁判官はそれらの慣習にしたがって判断せよ、というのが法律の主旨である。
だから、創作者Xはあらかじめ、自分は添削・改変という“慣習”には従わない、というべきだったというのである。)続きは明日です。「著作権」をもう少し説明する・・・
 

気休めに独り言

 投稿者:歌人の麻呂ハッチー  投稿日:2008年 3月21日(金)10時20分54秒
  オッハー だなんて言葉が大流行しました、私は頭が聞くたび 狂いました(もともと狂ってますが)

そんなの俺にゃ関係ねぇー と あっしにゃ何の関りもねぇでごさんす では月とスッポンです。バカな世の中に誰がしたのかねぇーー
視聴者のバカ受けだけを狙う マスコミテレビ放送も担当者も 大バカものです。

これでは、今の子供が大きくなった場合?
 
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文法もへったくれもない!

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月20日(木)20時39分54秒
  多少文法が間違っていても仕方がないのか?
さて、五七五の短い句を作る場合、一番苦労するのが「動詞」の使い方だ。明らかにこの「主語」だとわかる句もあるが、そうでない場合はこの動詞によって判断せざるをえない。
初心者の俳句を十五万句を分析して、「俳句―四合目からの出発―」を著わした阿部*肖人は次のように例を挙げて指摘している。
「現今は語法の乱れが甚だしく、時流に流されると、正しい語法を見失います。俳句作家たる以上は芭蕉以来の伝統たる『平談俗語を正す』誇りを捧持せねばなりません。そうかといって必ずしも古い文法にこだわる必要はなく、言語は生き物ですから、時代による変遷は確かにあります。
「活用形」と「文脈」とに分けて考えます。
(一)吾娘初の田植「夕焼く」○中に「終ゆ」
これは現今最も多い過失を三個兼ねます。第一は「夕焼け」という口語的名詞が、いつの間にか文語動詞に出世した不自然さが目立ちます。普通の口語でも「夕焼けする」だったのですが、近来、ことに俳句では動詞になりました。そして口語ならば自動詞の「夕焼ける」ですが、それを文語に「夕焼く」として他動詞「焼く」と混同します。口語を文語に出世させる不思議な現象は、俳壇に限りますが、一つの明らかな時代錯誤であります。
…次に「夕焼く中」は誤りです。この過誤が実に広範囲におよび、それも俳壇に限ることが、嘆かわしいことです。
文語、自動詞の「焼く」は下二段活用であって、「中」に続く時は「焼くる」にならねばなりません。「焼く」となるのは他動詞四段活用の終止形と連体形です。
ここで、私が指摘することは、一般に言って、下に続くときの「る」を脱落させる弊が余りにも目立ち、いきなり終止形で下に続けます。これは次項にまとめます。次ぎの過失は「終ゆ」です。「終ゆ」なんていう言葉がありますか、これは、
文語他動詞  終ふ    口語他動詞  終える
文語自動詞  終ふ    口語自動詞  終わる
このように「や行」になりません。ところがこの「終ゆ」及び同類が頻繁に出てきます。これはさらに次の項にまとめます。
(二) 虫しぐれい癒ゆ○さえ人に後れおり
       漁夫として老ゆ○兄冬の虹仰ぐ
       の り ぶすま海苔襖わが尋ぬ○家軒深き
        炭車押す汗のて掌に満つ○力
        池に投ぐ○残パン金魚口揃え
        昭和過ぐ○頃や梅雨空明からむ
        灯さねば枯木たそがる○事おそる
        生く○だけの母の踊の手があがる
        爪を染め生く○身シャボテン花咲けど
  右九句、すべて○印には「る」を入れるべきもの、そうでないと、これらは皆終止形で、下に続かず、ここで文が切れます。切れたら作者自身が困ります。このような粗雑な過失は余りにも多く、全般的で、初心者にも限らない現象であることは、俳壇の語感の低さを暴露することです。
(三)観光「終ゆ」長途車中の安き眠り
      雲の絶え間北斗息づき吹雪「終ゆ」
      貧農「飢ゆ」廃河のごとし冬銀河
      駅前の水松芽吹き風情「添ゆ」
      水枕「替ゆる」間柿の花こぼれ
      炎天に「耐ゆ」病棟の総力もて
      母子ささやか田「植ゆ」曇天動くなよ
これも前の(一)で説明した通りで、「添ゆ・耐ゆ・替ゆ」などのや行の言葉が存在しません。すべて行が違い、文語の旧かなでは「終ふ・添ふ・植う・耐ふ」でした。ことに「植う」は「植ゑ」の活用がでてくるこむずかしい有名な活用で、昔の試験では落第点ものです。しかるに、虚子に、
     老農は茄子の心も知りて「植ゆ」    虚子
があり、大御所的存在が、かかるていたらくですから困ったものです。」
という具合に延々と続き、この類の俳句がめった切りにされる。たしかに指摘されるように、通常の話言葉や文章などでは「終ゆ」とか「添ゆ・耐ゆ・植う」などとは使わない。
桑原武夫の「第二芸術論」ではないが、まず日本語の「言葉」の問題だ。続き明日です。・
 

正岡子規という人は・・・

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月18日(火)20時08分5秒
  高浜虚子の「俳談」(岩波文庫)によれば、子規は「芭蕉の偉いのは範囲の大きなことであって、芭蕉の弟子がそれぞれ長所をもっている。しかしその長所はことごとく芭蕉の備えていたものである。芭蕉には駄句も随分多いが、この範囲の大きさは偉大というほかはない。」と言っていたそうである。そして子規自身も芭蕉の長所を自分に求めていたようであり、俳句の十体というものを作ったり、去来調、其角調、蕪村調といったようなものを作り、また鳴雪調とか碧梧調とか虚子調などと自分の後輩のものまで真似て作っていた、という。
もっとも、正岡子規はもともと俳人ではなかった。当初は政治家を夢み、それから哲学者、文学者(小説家)と志望がかわっていった。(「現代俳句辞典」明治書院)
仁平 勝著「俳句が文学になるとき」で、子規の「獺祭書屋(だっさいしょおく)俳句帖抄上巻」を引き「俳句は其頃少しも見た事もなければ作った事もなかったが、それでも普通の俗人が花見に行くと何か一句ひねくるようなわけで、自分も何とはなしに十七字を連ねて見たのは明治十八年の事であろう。」そして子規が俳句に熱心になったのは、政治家も哲学者も小説家も駄目という挫折のあとに「俳句分類」という学問に取り組んだからである、という。要するに子規は、やるからには何事も一番で、そこの大将にならなければ気がすまなかった、と指摘している。
要するに、子規にとって俳句は「俳句分類」という学問の対象であり、特にその俳句が傑出していたわけではない。「むしろ子規の俳句はしばしば退屈であり、子規全集をひもといてその大量の俳句を読んでみれば、それこそ没個性の山にだれもがうんざりしてしまう。そもそも子規にはとりわけ俳句の才能があったわけではない。」(同書二八頁)このような先入観で、俳句を読んではならないとは思うが、「子規句集」(高浜虚子選 岩波文庫)二千三百句を読んでみて、なるほどと思った。「大仏に草餅あげて戻りけり」これはそのまま詠んだもの、ところが、信夫もち摺りで詠んだものに「うつぶけに涼し河原の左大臣」となると私には解らない。(ここはハイキングコースで何回も芋行った)
さらに、福嶋公園眺望と題して「見下せば月にすずしや四千軒」とあるが何処から何処を詠んだ句であろう。しかし、子規のこの平板で、やさしい表現は素人にとって大変勇気づけられるものである。
それにしても「近代俳句の父」は二万三千余の俳句を詠んだという。到底凡人のおよぶところではない。
続きは明日です・・・
 

今までの作品からの応用もアリ

 投稿者:夢太郎  投稿日:2008年 3月17日(月)20時50分59秒
  ミントさん、いい友達ができてよかったですね。大事に大事にしてください。では俳句の方に移る。
句作りは既存の作品からの引用、応用でもよい。
現実に自分の目で見たり、聴いたりしていなくても、既存の和歌、漢詩、物語、詩、謡曲、故事、その他散文を参考にして作句する例も多くある。
いうぜんとして山を見る蛙かな  一茶
これは、「悠然見南山」という陶潜の詩からの応用である。蛙が木の枝にいてぼんやり一方をみているのは、悠然として南山を見ているのだな、というのである。(虚子「俳句はかく解しかく味わう」)
なの花も猫の通ひぢ吹きとぢよ     一茶
これは、あの有名な百人一首の「天つ風雲の通ひ路吹き閉じよ 乙女の姿しばしとどめむ」僧遍照を下敷きにしている。またこれも奥の細道で詠われている
あかあかと日はつれなくも秋の風   芭蕉
は、足利尊氏の作と伝えられている
「須磨よりも明石のかたぞあかあかと日はつれなくも秋風ぞふく」からの転用であるという。(半藤一利「一茶俳句と遊ぶ」)
それから蕪村である。
俳句は自由自在、多岐多彩あらゆるものを題材としてとりあげた。
なかでも、「伊勢物語」から六句、「源氏物語」から四句、西行の和歌から四句、「万葉集」から三句その他「枕草子」「平家物語」「大和物語」などであるが、なかでも「徒然草」から取材した句が一番多く、二十一句を数えるという。(熊坂敦子「蕪村の俳句と徒然草」)
また、中国の古典「史記・刺客列伝」から題材をとった句がある。
秦の始皇帝を燕の刺客けい か荊軻が暗殺におもむくとき、易水のほとりで縁者は白装束で彼を見送る。彼は即興の詩をうたった。
「風はしょうしょう蕭蕭として易水寒く
壮士 ひとたび去ってまた復かえ還らず」
易水にねぶか流るる寒さかな   蕪村
(今、白装束に見送られて死に赴く情景にネギを投入して、蕪村は悲劇を滑稽
  化したのであろうか)
荊軻は暗殺に失敗し殺される。紀元前二二七年の故事である。
ついでながら、この列伝を貫くテーマは「士為知己者死 」(士は己を知るもののために死す=男は自分の理解者のために命を棄てる)であり、彼等刺客の動機となるのは、ある場合には小国(弱者)の大国(強者)に対する抵抗精神であり、またある場合は「人生意気に感ず」といった義侠心の触発である、という。さらに「女為説己者容」(女は自分を口説く者のために装う)と続く、女性の心理を突いて巧みである。
したがって、題材の選択は無限大である。
しかし、あまり似ている場合には著作権上の問題があり得るので注意が必要である。さしずめ先ほどの芭蕉の「あかあかと・・」などは尊氏が今生きていたら「著作権侵害」で訴訟沙汰になっていたかもしれない。続きは明日です・・・・
 
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